初めてその名前を聞いた時、◯□家などの牛丼の豚肉版だと思い、うまいんかなあと半信半疑で注文して、でてきたものを見てびっくらぽん!^^;)
厚切りの豚肉のロースを炭火で漬け焼きしたものが丼ご飯の上に載っているではないですか。
元祖豚丼のぱんちょうの豚丼(wikipedia)
そして食べてみると、豚肉の旨味と炭火焼の香ばしさがよくマッチして、その美味しさにすっかりファンになってしまいました。
帯広に行く機会は無いですが、今や帯広の豚丼は全国区?になったので、色んなところで食べられます。
(三宮サンプラザで)
そして今回、三宮に用があってお昼を三宮サンプラザ地下のグルメ階でとることに。
入った店は豚丼専門店の"豚めし家"
食券を買ってカウンターに着くと、でてきたのがこの豚バラ丼。
香ばしく炭火で焼かれた豚肉がご飯を覆い尽くしています。
帯広のそれに比べるとちょっと肉が薄い気がしますが、十分に美味しかったです。
並でこれだけなら大にしたらどんだけ載ってくるんでしょう。
その後、会議まで時間があったので、神戸市役所一回のカフェコーナーで、口直しのコーヒーゼリーを頂きました。
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(お好み焼きは外で食べるものではない)
大阪で生まれて35歳まで大阪に暮らしていたのですが、その後30年近く仙台、弘前という粉もん文化の希薄な土地で暮らしたせいで、お好み焼きは家で自分で焼いて食べるという風になっていました。
なので、ここ数十年、外食でお好み焼きを食べることはほぼありませんでした。
しかし、今回本当に久しぶりにお好み焼き屋で焼いてもらったお好み焼きを食べました。
(大山崎の山喜)
午前中に聴竹居見学がありました。
"雨の中の建物見学会_京都大山崎の聴竹居"
https://kitamahokif.jugem.jp/?eid=5360
そのあと、お昼を講演会会場近くでということになり、同行した方々お二人と、計3人でお好み焼き屋に入りました。
山喜というお店です。
4人がけのお好み焼き台2台とカウンター5人という小さなお店でした。
(何を頼んだか)
豚玉とかいか玉とか一般的なお好み焼きもありましたが、メニューで最初に目に入った、お店の名前の付いたYAMAKI焼きにしました。
生地には豚、その上に卵焼きをのせ、ソース、マヨネーズをかけて、更に刻んだ大葉を載せるという、この店オリジナルのもののようです。
サクッと焼き上げられた生地に甘辛いソース、卵焼き、そして大葉が良いハーモニーを生んで美味しくいただきました。
連れにつられて昼ビールやっちゃいました (*^^*)
講演会で寝ないようにしないと^^;)
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植田正治(植田正治と妻、1949年撮影。1913年3月27日 - 2000年7月4日、wikipedia)
植田雅治は土門拳と並び称せられる写真家です。
しかし、その方向性は180度違いました。
少女四態(植田正治 1939年)
リアリズムを追求し、”絶対非演出の絶対スナップ”をモットーとした土門拳に対して、植田調と呼ばれる前衛的な演出写真を追求した植田正治。
(植田正治写真美術館)
彼の作品を展示する美術館が、鳥取県の大山の麓にあります。ずいぶんと前にここを訪ねに行きました。
到着した時は結構な雨と風。
建物は、建築家高松伸の設計で、コンクリートの打ちっぱなし。
正面から見た4つのブロックからなる形状は、植田の作品 ”少女4態” のモチーフを生かしたもの。
建物の中も、センスが感じられる什器がそこかしこに。
大山を借景にした窓からの眺めも素敵です。
ちょっと遊んでしまいました。
シュールレアリズムのルネ・マグリットと、演出写真の創始者 植田正治へのオマージュです (^_^;)
映像展示室では、世界最大級の600mmのレンズを通し、大山の姿が、背後の壁面に上下逆転した形で映し出されています。
中には、カメラの原点であるカメラ・オブスキュラを再現した部屋もあり、あたかも自分がカメラの中にいる気分に浸れます。
植田正治が寄贈した15,000点の作品を所蔵し、常設展示していますが、彼の作風の変遷と、それでも変わらない写真への情熱、愛情が感じられました。
皆さんも、是非一度訪ねてみてください。
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(見学会)
この土曜日に聴竹居倶楽部主催の見学会と、それに関連した講演会が、現地でありました。
あいにくの結構な雨の中、朝9時30分から建物の見学会、そしてお昼を挟んで、近くの大山崎ふるさとセンターを会場にして、藤井厚二とおそらく影響を受けたであろうフランク・ロイド・ライトの建築に関する講演会がありました。
聴竹居は3年ほど前、一般公開の時に申し込んで見学に行きました。
その時は、本屋だけの公開でしたが、今回はその奥にある閑屋と手前にある茶室も見学することができました。
どうすれば日本の気候、その立地条件下でより快適に暮らすことができるか、また折しもスペイン風邪で数十万人の人が命を奪われれた時期でしたので、衛生的な住環境を確保するために、換気、湿度調節、明るさについて、用いる部材、建物の構造等について、考え抜かれていることが細部に読み取ることができます。
この聴竹居を保存し、次代に確実に引き継ぐために聴竹居倶楽部と言うボランティア団体を組織し、指導してこられた松隈さんの熱い思いも感じ取れる見学会、そしてその後の講演会でした。
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]]>ベートーヴェンは、モーツァルト、ロッシーニ、ドヴォルザークのように、湧き出る旋律の泉を持っていないから、あんなふうに短い動機を様々に展開し(弄くり倒して)、結果として壮大な交響曲第5番”運命”やディアベリ変奏曲なんぞを書いたんだろうと揶揄する輩がいます ^^;
たしかにベートーヴェンはモーツァルト、ロッシーニ、ドヴォルザークのようにあふれるメロディーを書き留めるのに忙しいというようなタイプではなかったでしょう。
しかし、そんな揶揄に対する立派な反例が、ベートーヴェンの宗教曲の大曲、ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)の中にもあります。その第四曲の第一部サンクトゥスから、第二部ベネディクスに移る冒頭(下にリンクを張っています)。
独奏ヴァイオリン(コンサートマスター)によるオブリガート(アンダンテ・モルト・カンタービレ・エ・ノン・トロッポ・モッソ)の旋律のなんと美しいことか。これを聴けば納得がゆくはずです。
それはさておき、この曲は第9番で交響曲の枠を超えたベートーヴェンが、宗教曲でもミサ曲のカラを打ち破ったものとして音楽史上でも重要な作品です。
従来のミサ曲は、ミサの儀式に誦せられる典礼文、『キリエ (Kyrie)』、『グローリア (Gloria)』、『クレド (Credo)』、『サンクトゥス (Sanctus)』、『アニュス・デイ (Agnus Dei)』などの歌詞にふさわしい曲をつけただけのものでした。
しかし、ベートーヴェンはそれに飽きたらず、それを尊重しながらも、曲間に明確な関連性を持たせ壮大な構造とした、まさに交響曲的な存在としたのです。当然、そこにあるのはキリスト教的教義というよりも、ベートヴェンの世界観が強く感じられる作品です。
今回、聴いた(観た)のは、
独唱:マーリス・ペーターゼン(S)、エリーザベト・クールマン(A)、ウェルナー・ギューラ(T)、ジェラルド・フィンリー(B)
合唱:オランダ放送合唱団
管弦楽:ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
指揮:ニコラウス・アーノンクール
BSプレミアムで放送されたものでした。(2012年4月19日アムステルダム、コンセルトヘボウでの公演から)
(ベネディクトゥスの冒頭から)
そんなベートーヴェンの命日が今日でした。
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#音楽 #クラシック #ベートーヴェン #旋律 #ミサソレムニス #命日 #3月26日
]]>ベル・エポック。フランスのパリが文化芸術の街として、最も輝きに満ちていた時代。
時期的には、19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までを一般に指すようです。
普仏戦争(19世紀中頃)に敗れたフランスでは、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、政治体制も第三共和制が不安定な状況でした。
しかし、19世紀末までにはイギリスに遅れるものの産業革命も進み、都市の消費文化が栄えるようになり、それにつれて芸術文化の華が開くこととなりました。1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点とみなすことができます。
(サラ・ベルナール)
サラ・ベルナール(1844年10月22日? – 1923年3月26日、wikipedia)
パリが最も華やかだった時代、ベル・エポックにおいて舞台女優として一斉を風靡した女優が、サラ・ベルナールでした。
(ベルナール、ミュシャを見い出す)
彼女はその俳優としての才能だけでなく、有能な芸術家を見出す能力にも長けていたようです。
サラ・ベルナールが、自身の舞台劇”ジズモンダ”のポスターを依頼した相手、アルフォンス・ミュシャは、当時全くの無名の印刷所に働く若者でした。
アルフォンス・ミュシャ(wikipedia)
彼は偶然のきっかけでこのポスターを手がけることとなりました。
それを見たサラ・ベルナールはその才能に惚れ込み、その後自身の舞台のポスターを彼に一任しました。
ミュシャ:舞台劇”ジスモンダ”のポスター
お陰で彼は一躍人気作家となります。
(そしてラリック)
さらに舞台の小道具としてのユリの冠。
これのデザインは例によってミュシャがポスターで発表。
ルネ・ラリック(wikipedia)
それを基にデザインしたのが、ルネ・ラリック。
やはり彼も当時無名のジュエリーデザイナーでした。
サラが依頼したことで、ひのき舞台に上がったことから、彼も世間の注目を浴びることになります。
こうしてみると、偶然の出会いがきっかけとはいえ、サラ・ベルナールの確かな見る目がこの二人をデビューさせたといえるでしょう。
まさに名伯楽ですね。
なお、ラリックの一大コレクションが、実は日本の箱根にあります。
箱根ラリック美術館(http://www.lalique-museum.com/)
箱根観光のついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
今日3月26日は、名伯楽サラ・ベルナールの命日でした。
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#サラベルナール #ジスモンダ #名伯楽 #ミュシャ #ラリック #箱根ラリック美術館
]]>明治期の日本の建築の指導者として来日した、ジョサイア・コンドル。
ジョサイヤ・コンドル(wikipedia)
彼は二人の偉大な建築家を薫陶しました。一人は片山東熊。そしてもうひとりが辰野金吾。
その辰野の設計の特性のひとつは、その設計の堅牢さにもあることから、辰野堅固と呼ばれたそうです (*^^*)
辰野金吾(1854年(嘉永7年)10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年〈大正8年〉3月25日、wikipedia)
さて、その彼が設計した代表作である東京駅の駅舎。
東京大空襲で損壊し、残念ながら、戦後に縮小サイズで修復された状態(ドームが無く、二階建て)が長らく続いていました。
しかし、2012年(平成24年)10月1日に耐震補強の必要性、明治の優れた建造物の保存という観点から、辰野のオリジナルデザイン(左右の立派なドームと三階建て)が完全に復活しました。
こういった歴史的建造物への耐震技術の導入は、言うは易し、行うは難しのいい実例のようですが、今回はそれとは別の芸術作品としての面です。
改修前の模型
改修後の模型(左右のドーム、そして駅舎全体が3階建てになっています。)
規模の再現だけではなく、細かなところも、忠実に再現されています。
化粧煉瓦の目地が、今はその技術がなくなってしまっていた覆輪目地。この復元のために左官職人に何か月もの練習の上、挑戦してもらったとか。
覆輪目地は海外にはない日本独特のものですが、その由来はこのなまこ壁に触発されて生まれたもののようです。
一方、屋根回りですが、複雑な曲線部はすべて銅版で葺かれています。これもなかなかに大変な作業(その形に手で打って整形したそうです)で、全国から職人さんを集めたと聞きます。時を経て緑青が表れてくるといい味になるでしょうね。
これは中央の棟の時計の下にあるレリーフで、これも銅製です。
建物全体で銅を100トンも使ったとか。
そして屋根の広い面積の直線部分はスレートで葺かれています。
実はこのスレートの製造は、東日本大震災で大きな被害を受けた石巻の業者が受注していました。震災によって会社の建物はことごとく倒壊したものの、奇跡的にスレートは多くが使用可能な状態で残っていたとか。それを泥の中から取り出し、一枚一枚洗って出荷して、工事に間に合わせたのでした。
こちらはこのスレートに、石巻の小学生たちが描いた富士山の絵です。東京駅の駅なかアートのひとつとして展示されています。
いわば高度な工業技術、製品の集合である駅舎も、アートな作品だということがわかります。
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#辰野金吾 #片山東熊 #ジョサイアコンドル #明治 #建築家 #東京駅 #改修
]]>しかし、様々な事象が複雑に重なり合い、影響し合ってできている歴史、一つだけ変えて、後は都合よくそのままとは到底考えられません。なので考えるだけ無駄だと思うのですが、やはりその想像の魅力に抗するのは難しいかと。
(試験・コンクールの持つ意味)
そういう観点で、試験やコンクールを考えると、当事者にとっては合格、あるいは入賞を願わないではないですが、残念ながらその夢は叶わない場合もあります。問題はその後だと思うんですよね。
それを人生の目標と考えるとショックは相当だと思います。しかし一つの通過点だと考えれば、次を頑張ろう、あるいは他にも選択肢はあると気持ちを切り替えられます。
それに、一つの合格、入賞を人生の目標なんて思っていると、叶った場合にはその後は余生になってしまいます (^_^;)
それで目標を見失って、その後の人生そのものが寂しいものになる人も結構いるのではないでしょうか。
(作曲家バルトークの場合)
さて、試験というか、コンクールで思う結果が得られなかったことで、その後の人生が大きく変わった一人の作曲家のお話です。
その人は、今日が誕生日のベラ・バルトーク(バルトーク・ベラ、ハンガリーでは日本語と同様、姓・名の順で記載する)。
バルトーク・ベラ(1881年3月25日 - 1945年9月26日、wikipedia)
24歳の時に、アントン・ルビンシュタイン音楽コンクールで優勝すると信じて臨んだものの、一位をあのヴィルヘルム・バックハウスに奪われ、大きなショックを受けます。
しかし、その頃ドビュッシーの音楽を知り、また民族音楽研究の先達、ゾルターン・コダーイと出会ったことで、作曲家の道へと舵を切りました。
(新たな人生)
もちろん、一位は取れなかったものの、そのピアニストの腕前は群を抜いており、また教育者として才もあって、ブダペスト音楽院ピアノ科教授に就任していますし、彼の下からリリー・クラウス、ゲサ・アンダなどの名ピアニストが巣立っています。
また指揮者のゲオルク・ショルティも彼からピアノを学んだといいます。
歴史に"もし"は禁物かも知れませんが、もしコンクールで一位を取っていたら、そしてコンサートピアニストとして活躍していたら、作曲家としてのバルトークの業績は大きなものにならなかったかもしれませんし、我々は大きな財産を失っていたかもしれません。
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#音楽 #クラシック #バルトーク #ピアニスト #コンクール #作曲家 #教育者 #歴史 #コダーイ
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マウリツィオ・ポリーニ(1942年1月5日 - 2024年3月23日、wikipedia)
ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニが亡くなりました。82歳でした。
彼のピアノの録音を初めて聞いたのが、ストラヴィンスキーのバレエ音楽"ペトリューシュカ"のピアノ独奏版でした。
ストラヴィンスキーのあの多彩なオーケストラ作品をピアノ一台で表現し切るそのテクニックと強靭な音に圧倒されたのを思い出します。残念なのは、生演奏を聴けなかったこと。
(参考までに)
ストラヴィンスキー:ペトルーシュカからの三楽章
ポリーニ(Pf)
https://www.youtube.com/watch?v=Z9wWKvBxFkw&list=PL_NUYmjdb-G97cO5OL9OX4jVcJF4jamkP
(偉大なピアニストに至る道)
18歳のとき(1960年)、第6回ショパン国際ピアノコンクールで審査員全員一致で優勝し、その時の審査委員長のアルトゥール・ルービンシュタインに、
"今ここにいる審査員の中で、彼より巧く弾けるものが果たしているだろうか”と言わしめ、一躍国際的に活躍するピアニストの道を歩み始めるはずでした。
しかし、それから10年近く、国際演奏活動から遠ざかり、国内のコンサート、リサイタルのみに出演しました。
その理由は、自分はまだ若く、もっと勉強が必要であることをポリーニ自身が自覚していたためと言われています。
なんとミラノ大学で物理学を学んだり、イタリアの名ピアニスト、アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリに師事するなどして研鑽を積みました。
(ちなみに、ポリーニは、ミケランジェリより22歳若いが、誕生日は同じ1月5日生。またブレンデルより11歳若くて、同じ1月5日生という奇遇)
1968年に国際ツアーを開始し、1971年から録音を発売するやいなや大ヒットを連発。
最高のピアニストと呼ばれるに至ります。
16世紀の音楽から現代音楽までと、非常にレパートリーが広い事でも知られます。
彼の登場でピアニズム(ピアノ演奏法)が激変したといわれます。
正確無比、人によっては鋼鉄のようで冷たいなどと評されることもありますが、正確さの先に表現できるものがあると考えていたのではないでしょうか。
それを端的に示す演奏として、ショパンの練習曲をお聞きください。
(参考までに)
ショパン:練習曲集
マウリツィオ・ポリーニ(Pf)
https://www.youtube.com/watch?v=TV7_SPMaII4
ご冥福をお祈りいたします。
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"いちごの後は、トマト? ^^;)"
https://kitamahokif.jugem.jp/?eid=5348
そのあと、阪急六甲駅近くのラーメン屋でトマトスープのラーメンを食べました。いちごと同じ赤になにか縁を感じたので ^^;)
それからまだ一週間も立たないのに、また赤いラーメンを食べてしまいました ^^;)
(西北のバーミヤン)
場所は西宮北口駅の南西、芸文がある近くののバーミヤンと言う中華のファミレスです。
その近くのエディオンに電気製品を見に行ったあと立ち寄ったのですが、たまたま台湾フェアというのをやっていて、面白そうなので入った次第です。
台湾で今人気だというお店(潮味決という特製スープの専門店)とのコラボでいくつかのメニューを出していました。
ここでも注文はタブレットでですね。
フェアのメニューの先頭にあった番茄牛肉麺(ファンチェニューローメン)という牛肉を煮込んだものを載せたラーメンが美味しそうだったので、即決したのです。
しかし、よく見るとトマトの切ったものが入っていて、番茄がトマトのことだと言うのが、その時点でわかったという次第です ^^;)
でてきたのがこれ。ちょっとメニューと違うんじゃない?と思ったのですが、それは肉がみんなスープに沈んでいたためで、大きさ、量共にメニューとあまり変わりはありませんでした、いやちょっと少ないかな? ^^;)
よく煮込まれた肉は口の中でほどける感じ。香辛料がよく染み込んでいます。
麺は細めん。量も程よい感じです。
そしてスープは濃厚でとろみのあるもので、トマトの酸味と、豆板醤の辛味がうまくあっていて、美味しくいただきました。
お店の情報はこちら。
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こんな本を衝動買いしてしまいました。北東北3県(青森、岩手、秋田)の情報誌"rakura"最新号です。
何に惹かれたか? それは表紙です (*^^*)
(津軽の鳥居の鬼こ)
弘前に住んでいた頃、偶然鳥居の上に鬼がいることに気づきました。
調べてみると、津軽富士とも呼ばれる霊峰岩木山の麓一体に40以上も散在していることがわかり、一つ一つ探し当てては写真を撮ることをやっていました。
かわいいものから、おどろおどろしいもの、コミカルなもの、重厚なものまで様々ありました。
つがる市木造の天満宮
五所川原市金木喜良市桔梗野の立野神社
弘前市撫牛子の八幡宮
平川市日沼高田の三社神社
五所川原市神山鶉野の闇おかみ (くらおかみ) 神社
どれも実に楽しい撮影行でした。迷いに迷って、最後に見つけた時の感激は今も忘れられません。
(なぜ鬼信仰が津軽に?)
弘前市鬼沢菖蒲沢の鬼神社
なぜ津軽にはそんな鬼信仰があるのかを調べると、鬼神社と言う神社に行き当たりました。
鬼神社の拝殿に掲げられた扁額。
この神社の扁額をよく見ると、鬼の字の一番上に点がないのです。優しい鬼には角が無いということなのでしょう (*^^*)
(愛される鬼)
他の土地では忌み嫌われるはずの鬼、それが弘前の鬼沢と呼ばれる地域では、事情が違います。
弥十郎伝説というのがあります。
それによると、日照りで困窮した村人を優しい鬼が、逆さ堰を作って水を村に引き、助けたという言い伝え。だから村人が氏子として、祀ってきたことに納得がゆきます。
そして鉄器を使う文化をもたらした種族?が移り住んで(拝殿にその鉄の農耕器具が奉納されていました)、征服するのではなく、地元の人々とうまく融和していった歴史があったのではないかと思われます。
その象徴が鬼神社であり、鳥居の鬼このようです。
岩木山の麓にその鬼信仰が広がるとともに、鳥居に鬼を飾る風習ができたのではないでしょうか。
その辺の事情を、五所川原の神明宮の宮司さんからお話を伺い、色々と参考にさせていただいたのを思い出します。
五所川原市の神明宮拝殿
(ショッキングなこと)
ところが、その神明宮が数日前に火災で全焼したというニュースが飛び込んできました。
"神明宮が燃えている"(FNNプライムオンライン)
氏子さん達の協力による本殿改修から10年ほどしか経っていないはずのに、本当にお気の毒なことです。
早い復旧を心より願っています。
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#紀行 #青森 #弘前 #津軽 #優しい鬼 #鳥居の鬼こ #鬼神社 #五所川原神明宮 #火事
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ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日、wikipedia)
ゲーテは、ドイツを代表する文豪ですね。文豪と呼ばれるだけあって、詩人、劇作家、小説家、自然科学者(色彩論、形態学、生物学、地質学、自然哲学、汎神論)、政治家、法律家という、言葉を使う様々な分野で多彩な才能を発揮しました。
そして、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残し、その後の芸術家に多大な影響を残しました。
(魔王)
そんな彼の詩のひとつをもとにシューベルトが書いた歌曲が、あの名曲"魔王"です。
あらすじは以下の通り。
父親が高熱の息子を助けようと夜中に馬を走らせた。
しかし、息子は魔王の声を聞き、恐怖におびえ、父に訴えた。
ところが父は高熱による幻聴・幻想と受取り、そのまま走り続けた。
そして、最後は目的地に着くも既に息子は息絶えていた。
一人の歌い手が、父と息子、悪魔、そして語り手を歌いわけ、ピアノはその劇的な状況を弾き分けるという、どちらも何度の高い作品。
それをうまく表現できている決定版は、フィッシャーディースカウ(Bs)、ジェラルド・ムーア(Pf)ではないでしょうか。
(参考までに)
シューベルト:歌曲"魔王"(詩:ゲーテ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(Pf)、ジェラルド・ムーア(Pf)
https://www.youtube.com/watch?v=2d4SddVDBZI
モーリッツ・フォン・シュヴィント(1804-1871)による"魔王"の挿絵
(歌曲"魔王"のゲーテによる評価)
ゲーテのこの詩に作曲した作品は他にもいくつかありました。
実はゲーテはシューベルトのこのような劇的な表現を好まず、民謡調の他の作曲家の作品を良しとしました。
その後この歌曲は、長く高い評価を得られませんでした。
ところが、ゲーテは最晩年に、ソプラノ歌手ヴィルヘルミーネ・シュレーダー=デフリントがシューベルトの『魔王』を歌うのを直接聞いたところ、「私は前にも一度この作品を聴いたことがあるのだが、そのときはぜんぜん気に入らなかった。だが、あなたがいま歌ったように演奏されると、曲全体が一幅の絵となって目に見えるようにみえる」と、過去に低い評価を下したことを悔いたと伝わっています。
そして現在はドイツ歌曲の中でも最も人気のある作品の一つになっています。
なかなか芸術作品の評価というものは難しいものですね。
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]]>この名前を聴けば、多くの方が、”ああ、ごん狐の作者の”となるのではないでしょうか。
新美南吉(1913年〈大正2年〉7月30日 - 1943年〈昭和18年〉3月22日、wikipedia)
(ごん狐)
この童話を、小さいお子さんに読んで聴かせたことがある方も多いのではないでしょうか。
短いお話なので、まずは青空文庫(著作権フリーの文庫サイト)を読んで思い出してみてください。
ごん狐 新美南吉作 https://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/628_14895.html(青空文庫)
これを書いたのは、新美南吉がわずか17歳の時。初出は『赤い鳥』1932年1月号です。
(夭折の作家)
彼は、当時不治の病と言われた結核で、1943年に29年という短い人生を終えました。抗生物質ストレプトマイシンが日本でも普及し、死者が激減したのが1945年の敗戦後のことです。そのためにどれだけ有為な人々が志半ばにして亡くなったか。
とはいえ短い人生だったゆえ、作品数は多くありませんが、「ごん狐」以外にも「おぢいさんのランプ」や「手袋を買いに」という、とても印象深い作品があります。
直接お互いにあったことはなかったようですが、地方で教師を務めた経験があり、若くして亡くなった童話作家という点で共通する宮沢賢治と彼は、「北の賢治、南の南吉」という風に並び称されることもあります。
尤も、独自の世界観、宗教観からくるシニカルな表現が特徴の賢治に対して、自分の周りにあった素朴なエピソードを基に情緒的なタッチで描く南吉という風に、作風は対照的でした。
今日3月22日はそんな新美南吉の命日でした。
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]]>オーセンティック(authentic)とは「本物の」、「真正の」、「信頼できる」、「正統な」などの意味を持つ形容詞ですね。
例を示すと、
"その絵画の署名は真正(本物、正当のもの、本人のもの)であると確認された。"
The signature on the painting was confirmed to be authentic.
なんて使い方をします。
(バッハにおいて)
音楽におけるオーセンティックの問題に目を移すと、たびたび取り上げられるものの一つが、バッハの器楽曲はどの楽器で演奏するのが正しいのかというもののようです。
ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日)- 1750年7月28日)
例えば私の好きなゴルトベルク変奏曲。
従来ハープシコードによって演奏することに疑いの余地はないとされていました。
しかし、1955年にグールドがピアノ演奏によるアルバムを発表するやいなや、クラシック音楽の世界に大きな衝撃が走りました。
バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988/グレン・グールド(p)1955
それからというもの、まるでパンドラの箱を開けたかの如く、多くのピアニストがこの作品を取り上げるようになったにとどまらず、室内アンサンブル、オーケストラ演奏と様々な形態で演奏されるようになりました。
とはいえ、元々バッハの曲は様々な楽器によって演奏することに音楽的な制約はなさそうなことは、クラシックの演奏家ではなく、ジャズの演奏家達によって示されていました。ジャズ・アレンジのバッハ演奏がよく行われていましたから。
JACQUES LOUSSIER "The best of Play Bach" (1985)
しかし、それはクラシック演奏家達のあずかり知らぬこととされてきていました。
(FRETWORK)
さて、FRETWORKと云う団体(ヴィオールという古楽器奏者6名からなるグループ)をご存知でしょうか。彼らの演奏によるゴルトベルク変奏曲のCDがあります。
ちなみにフレットワークという名前は、彼らが使う楽器がヴァイオリン属(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ)ではなく、ヴィオール属のものであることから来ています。
ヴィオール族の名前の由来は、ギター(あるいはマンドリン)のようなフレットを持っていることに由来します。
ヴィオラ・ダ・ガンバ(wikipediaより)
またヴィオールはフランス語で、イタリア語ではビオラ・ダ・ガンバになります。
膝の間に挟んで固定して、弓で弾きます。
FRETWORKは6名によるアンサンブルですが、全てヴィオール属の楽器であることから同質の響きが非常に良く溶け合い、音色が実に心地よいと感じます。
それと共に、実にまっとうな解釈による演奏で、奇を衒ったところがなく、実にすっきりとした演奏です。
だからと云って特徴のない平凡な演奏というわけではなく、ヴィオールに編曲する際に随分と練られたんだと思います。
各声部のバランスが良く、この曲のポリフォニー的性質が美しく描き出されていると感じました。
ヴィオールによるゴルトベルク変奏曲は、まさしく”あり”(あるいは真正である)です。
Bach: Goldberg Variations (FRETWORK) harmonia mundi 2011
https://www.youtube.com/watch?v=4tVqx3VY70o
なんとも言えない典雅な香りのする演奏ですね。
(おまけ)
最後に、非常に珍しい楽器による演奏も聞いてみてください。
チェンバロにリュートの弦を張った、ラウテンヴェルクと言う楽器によるものです。
https://kitamahokif.jugem.jp/?eid=2365
https://www.youtube.com/watch?v=UqpxCp01OyE
さて、今日3月21日はバッハの誕生日(ユリウス暦)でした。
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#バッハ #オーセンティック #何で演奏するか #ゴルトベルク変奏曲 #チェンバロ #ピアノ #グレングールド#FRETWORK #ヴィオール属
]]>これまでの人類の歴史を見れば明らかでしょう、”芸術は政治から独立した存在”だというのが、残念ながら理想にすぎないということを。芸術をスポーツ、科学に置き換えてもそれは同じです。
それらが時の政権(政治)に依って糾弾され、あるいは利用され、翻弄された歴史があります。
例えば、西洋音楽の正統、伝統を担ってきたドイツが、ナチスの台頭によって、大きく揺らぐことになりました。
グスタフ・マーラー(wikipedia)
マーラーをはじめとしたユダヤ系の作曲家の作品、ワルターなどの演奏家を国家の理念に反するものとして、ナチス政権が攻撃を始めました。その一方で、ワグナーの音楽が、そしてリヒャルト・シュトラウスの音楽が国威発揚に用いられたのです。
しかし、それは政権だけでしょうか?一般の市民がそれに追随し、率先してその締め出しに協力した事実を忘れてはいけません。
その象徴的な事件が、とある演奏会の記録(録音)の中にあります。
カール・シューリヒト(wikipedia)
カール・シューリヒトはドイツを代表する名指揮者の一人です。
その彼が、ナチスが政権を握った1930年の終わりに指揮した演奏会。
マーラー ”大地の歌” シューリヒト指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管 1939年10月5日の歴史的録音
https://youtu.be/fGYm--KQSQo?t=3212
この中で、ユダヤ人のソリストが歌い始める直前に、突然観客席から指揮者を名指しで非難する女性の声が録音されています。
”Deutcheland uber alles, Herr Schuricht ! ”
”ドイツはすべての上に立つのです、シューリヒトさん!”
強烈な選民思想が、その一市民の放った言葉から伺い知れます。
(何処にでもあり得る)
しかし、何もドイツだけではありませんでした。
太平洋戦争時、日本の社会では西洋音楽禁止とされ、それを率先して宣伝し、演奏や聴いている者を見つけては非難通告していたのは、なにをかくそう、大日本婦人の会と言った一般市民で構成された団体でしたから。
そういった過去に目を瞑ってはいけませんね。
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#音楽 #芸術 #科学 #政治 #独立 #ナチス #選民思想 #ユダヤ #大日本婦人の会
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