(やまと絵という系譜)
田中訥言、冷泉為恭、谷文晁、榊原文翠と並べて、ピンとくる方は果たしてどれだけおられるか。
田中訥言(1767年 - 1823年5月1日、wikipedia)
谷文晁(1763年10月15日 - 1841年1月6日、wikipedia)
さて昨今、注目される日本画の流派といえば、狩野派、円山・四条派、琳派、浮世絵の歌川派などですね。
しかしこの中でも最も古い狩野派でさえ室町時代以降に登場したもので、それ以外は戦国時代から江戸時代にかけてです。
ではそれまで日本に絵画の歴史がなかったか?
いや、そんなことはもちろんなくて、貴族社会の始まった平安時代から連綿と書き続けられてきたやまと絵があります。
その伝統的な絵を受け継いだのが土佐派ではありましたが。
(やまと絵ってなに?)
そういう方は、源氏物語絵巻などの絵巻本に描かれた絵を思い起こしてもらえればいいでしょう。
やまと絵の絵師たちは、宮廷の貴族や大きな寺社仏閣からの求めに応じて描いていました。
彼らは墨の線描と岩絵の具による彩色という日本の絵画の基本を定めました。
源氏物語絵巻(wikipedia)
(他の流派との関係は?)
狩野派の始祖である狩野正信は、やまと絵の技法を学んだ上で、それを発展させて、狩野派独自の画風を確立しました。
他の流派も多かれ少なかれ、やまと絵からの影響は受けています。
しかし、そんなやまと絵も、パトロンである貴族の凋落から、いつしか勢いが失われていきました。
そんな中、最初に挙げた人々が、江戸時代の末期に再びやまと絵を復興させることになります。
特に田中訥言は、やまと絵ルネサンス(復古大和絵)の立役者。
それに共鳴して師事した冷泉為恭、谷文晁。
また武士の家に生まれながら、絵を描くことに後半生を掛け、明治期はじめの日本画を支える働きをした榊原文翠。
谷文晁も武家の生まれですが、文雅の家系に育って優れた文才を持ち合わせ、和歌や漢詩、狂歌などもよくした。
彼の画業は、公余探勝図など、5つの作品が重文に指定されていることからも、高い評価を得ていることがわかります。
谷文晁:公余探勝図(wikipedia)
(映画 ”京都やまと絵師物語”)
彼らの功績の大きさが、正しく評価されてこなかったように感じます。
私自身、葛飾北斎との関わりで谷文晁の名前は知っていたものの、その業績についてはほとんど知りませんでした。
映画 京都「やまと絵師」物語、オープニング
ところが近年公開された映画、京都やまと絵師物語によって、彼らの日本画に果たした重要な役割、その魅力を知ることが出来ました。
中でも印象的だったのが、武士の家に生まれながらも、武士として生きながら、日本画のために一生を捧げた榊原文翆。
彼は幸い明治期(86歳)まで生きながらえる事ができて、京都市立芸大の前身の京都府画学校、京都市美術学校で後進に絵の指導までしました。
一方、公家のお抱え絵師であった冷泉為恭。本名は、狩野 永恭(かのう えいきょう)、のち冷泉為恭に改めたのですが、自らが冷泉家に無断で名乗ったもので、公家の出自ではありません。
彼は立場上尊王攘夷派とみなされていました。
しかし、純粋に絵画への強い関心から『伴大納言絵詞』を所有していた小浜藩主である京都所司代・酒井忠義に接近し、閲覧の許可を得て『伴大納言絵詞』を模写していました。
その行動が尊王攘夷派の者たちから、彼は佐幕派の危険人物であるとみなされ、裏切り者として最後には暗殺されてしまいます。
彼は ”ただ絵を書きたかっただけやのに” という言葉を残して。
残念ながら、いつの時代も芸術は政治と無関係では居られないという一つの事例ですね。
いずれにしても、彼らの涙ぐましい尽力によって、日本画はその後も営々と続くことが出来たわけです。
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