(芸術家も政治と無縁では居られない)
己の信じる美のみをただひたすらに追い続けることができれば、芸術家としてこれほど幸せなことはないでしょう。
しかし、生きる時代によってはそれが許されず、好むと好まざるとにかかわらず、政治の波に翻弄され、あるいは飲み込まれて、心ならずしも、芸術のみに生きることを許されないことがあるようです。
(共産革命とナチス)
クラシック音楽の世界でみれば、第二次大戦時のドイツ、共産革命後のソビエトなどで生きた芸術家は、自身の芸術に対する信念を曲げて生きざるを得ない(さもなくば命をも失う危険性があった)状況にさらされていました。
その中で生きてゆくためには、まさに面従腹背(どこかの国の省庁の政務次官だった人の座右の銘らしいですが、あんな自己の利権を守るためのようなちゃちな話ではなく)でなければならかったわけです。
ドミトリー・ショスタコーヴィチ(wikipedia)
その典型的な例は、ソビエトの作曲家ショスタコーヴィチ。彼の作品の多くは国家、そして主席であったスターリンを賛美する様に表面的には見えますが、そこに巧妙に織り込まれた強い批判精神をも読み取ることが出来ます。
さて、ドイツにおいてはナチスとの関係が大きな問題でした。ドイツにおける音楽家たちは、ナチスを受け入れるか、亡命の道を取るしか生きる道はありませんでした。もちろんナチスを受けれた人々は、戦後ナチスに肩入れしたことを咎められ、しばらく活動を停止されことにもなりましたが。
パウル・ヒンデミット(wikipedia)
(ヒンデミットとフルトヴェングラー)
そのような例として、ヒンデミット事件は示唆的です。
ヒンデミットは当時のドイツ帝国音楽院の顧問であり、シャルロッテンブルク音楽大学の教授の地位にあり、新作歌劇 ”画家マティス”を発表しようとしていました。その初演の指揮を担当することとなったのが、ベルリン・フィルとベルリン国立歌劇場の両方の音楽監督であったフルトヴェングラーでした。
フルトヴェングラー(没後1年に発行された切手、wikipedia)
さて、ヒンデミットはドイツ人ながら、普段からユダヤ人音楽家との交流があり、以前の作品の内容がヒトラーの目から退廃的、反体制的作品と映ったようです。そして遂に”画家マティス”の初演をナチスが禁止してしまいました。それに対して指揮者フルトヴェングラーが怒り、音楽監督の地位を辞する覚悟で反対の論陣を張りました。
それに対して、ナチスのゲッペルスは断固たる処置を取り、フルトヴェングラーを帝国枢密顧問官並びに両音楽監督の地位から解任しました。
一方、ヒンデミットは、まずトルコに亡命し、スイスを経由して最終的にアメリカの市民権を獲得し、イェール大学で教鞭をとることになりました。
一方、フルトヴェングラーの解任によって、いわば国の看板であったベルリン・フィルや歌劇場の実力低下を危惧したナチスはフルトヴェングラーに歩み寄りを図り、ベルリンの指揮台に復帰することとなりました。
しかし彼はナチスになびいたわけではなく、ナチス批判、ユダヤ人救済の発言を続け、結局ゲシュタポに命を狙われ始めたため、スイスに亡命しました。
ところが、国際的にはナチスになびいたと思われ、戦後しばらくヨーロッパの音楽界には復帰できませんでした。
そして復帰してから間もなくフルトヴェングラーはこの世を去ります。
まさに政治に翻弄された晩年といえるでしょう。
交響曲”画家マティス”
https://www.youtube.com/watch?v=znXWfmfPh8E&t=1s
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