弘前りんご_新参者の宝塚日記

大阪から転勤で仙台8年、青森県弘前で21年暮らした関西人が、関西圏とはいえ、大阪とは違った土地の宝塚に住み、いわば新参者として暮らす中で、見聞きしたこと、思ったことをつれづれに書き綴って行きます。
雨の中の建物見学会_京都大山崎の聴竹居
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    (聴竹居)
    建築家藤井厚二の代表作が、京都大山崎の丘陵に立つ聴竹居
    聴竹居は、藤井厚二が日本で唱え始めた環境工学の理念に基づく実験的建造物のいわば最終形態。自身も家族とともに10年ほど住みました。いたるところに彼の思いが込められているのが感じられる建物です。

     

     

    (見学会)
    この土曜日に聴竹居倶楽部主催の見学会と、それに関連した講演会が、現地でありました。

     

    あいにくの結構な雨の中、朝9時30分から建物の見学会、そしてお昼を挟んで、近くの大山崎ふるさとセンターを会場にして、藤井厚二とおそらく影響を受けたであろうフランク・ロイド・ライトの建築に関する講演会がありました。

     

    聴竹居は3年ほど前、一般公開の時に申し込んで見学に行きました。

     

     


    その時は、本屋だけの公開でしたが、今回はその奥にある閑屋と手前にある茶室も見学することができました。

     

    どうすれば日本の気候、その立地条件下でより快適に暮らすことができるか、また折しもスペイン風邪で数十万人の人が命を奪われれた時期でしたので、衛生的な住環境を確保するために、換気、湿度調節、明るさについて、用いる部材、建物の構造等について、考え抜かれていることが細部に読み取ることができます。

     

    この聴竹居を保存し、次代に確実に引き継ぐために聴竹居倶楽部と言うボランティア団体を組織し、指導してこられた松隈さんの熱い思いも感じ取れる見学会、そしてその後の講演会でした。

     

     

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    #建築 #藤井厚二 #聴竹居 #大山崎 #フランクロイドライト #環境工学

    | 弘前りんご | 建築 | 05:47 | comments(0) | - |
    堅固な金吾。今日は明治の建築界の巨人、辰野金吾の命日。
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      (明治の建築会の二大巨頭)

      明治期の日本の建築の指導者として来日した、ジョサイア・コンドル

       

      ジョサイヤ・コンドルwikipedia

       

      彼は二人の偉大な建築家を薫陶しました。一人は片山東熊。そしてもうひとりが辰野金吾

       

      その辰野の設計の特性のひとつは、その設計の堅牢さにもあることから、辰野堅固と呼ばれたそうです (*^^*)

       

      辰野金吾(1854年(嘉永7年)10月13日〈嘉永7年8月22日〉- 1919年〈大正8年〉3月25日、wikipedia)

       

      さて、その彼が設計した代表作である東京駅の駅舎

       

       

       

      東京大空襲で損壊し、残念ながら、戦後に縮小サイズで修復された状態(ドームが無く、二階建て)が長らく続いていました。

       

       

      しかし、2012年(平成24年)10月1日に耐震補強の必要性、明治の優れた建造物の保存という観点から、辰野のオリジナルデザイン(左右の立派なドームと三階建て)が完全に復活しました。

       

      こういった歴史的建造物への耐震技術の導入は、言うは易し、行うは難しのいい実例のようですが、今回はそれとは別の芸術作品としての面です。

       

       

      改修前の模型

       

      改修後の模型(左右のドーム、そして駅舎全体が3階建てになっています。)

       

      規模の再現だけではなく、細かなところも、忠実に再現されています。

       

       

      化粧煉瓦の目地が、今はその技術がなくなってしまっていた覆輪目地。この復元のために左官職人に何か月もの練習の上、挑戦してもらったとか。

       

       

      覆輪目地は海外にはない日本独特のものですが、その由来はこのなまこ壁に触発されて生まれたもののようです。

       

       

       

      一方、屋根回りですが、複雑な曲線部はすべて銅版で葺かれています。これもなかなかに大変な作業(その形に手で打って整形したそうです)で、全国から職人さんを集めたと聞きます。時を経て緑青が表れてくるといい味になるでしょうね。

       

       

      これは中央の棟の時計の下にあるレリーフで、これも銅製です。

      建物全体で銅を100トンも使ったとか。

       

       

       

      そして屋根の広い面積の直線部分はスレートで葺かれています。

      実はこのスレートの製造は、東日本大震災で大きな被害を受けた石巻の業者が受注していました。震災によって会社の建物はことごとく倒壊したものの、奇跡的にスレートは多くが使用可能な状態で残っていたとか。それを泥の中から取り出し、一枚一枚洗って出荷して、工事に間に合わせたのでした。

       

       

      こちらはこのスレートに、石巻の小学生たちが描いた富士山の絵です。東京駅の駅なかアートのひとつとして展示されています。

       

      いわば高度な工業技術、製品の集合である駅舎も、アートな作品だということがわかります。

       

       

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      #辰野金吾 #片山東熊 #ジョサイアコンドル #明治 #建築家 #東京駅 #改修

      | 弘前りんご | 建築 | 16:57 | comments(0) | - |
      我らが街、宝塚の誇り。村野藤吾
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        (出会いは阪急今津線)
        弘前から宝塚に移り住んで、度々乗ることになった阪急今津線
        それに乗って宝塚に向かうと宝塚南口駅の少し手前の左側(西側)に瀟洒な尖塔が見えてきます。

         


        ある時、思い切って南口駅で降りて、もと来た方向に歩いて戻って、その教会を訪ねました。

         

         

        そして中を見せていただいた際に、それが村野藤吾と言う建築家の設計であることを知ったのです。

         

        村野藤吾(1891年(明治25年)5月15日 - 1984年(昭和59年)11月26日、wikipedia)

         

        その後、宝塚市役所本館そのものが村野藤吾の設計であることに気づきました。

         


        さらに調べてみると、村野藤吾は後半生を宝塚(清荒神)に移り住んで、大阪、兵庫で多くの作品を残したことがわかりました。

         

        (関西大学千里山キャンパス)
        今回、大阪建築士会の主催によるこの大学のキャンパスに残る村野藤吾の作品を見て歩くツアーに参加してきました。

        あいにく、雪のちらつく寒さではありましたが、このキャンパスの個々の建物の設計だけではなく、キャンパスの在りようを決めた村野藤吾の想いを知ることができました。

         

         

        1950年から1980年という長きに渡って、一つの大学のキャンパス設計、建物設計をした例は他には無いのではないでしょうか。最も多かったときは40棟以上の建物があったそうですが、現在は建て替えられたりしていて、それでも20棟ほど残っています。いわば村野藤吾建築群と言えるでしょう。

         

         

        現在は博物館に転用されている、元は図書館であった簡文館

         

         

        階段の魔術師と呼ばれた村野藤吾設計の階段を登り降りできました (*^^*)

         


        正面玄関から入るとまっさきに目に入る円神館(ITセンター)などなど、村野藤吾好きにはたまらない場所ですね。

         

        今回は1時間半という限られた時間だったので、見ることのできなかった建物も結構ありましたので、また改めて行ってみたいと思いました。

         

         

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        #建築 #村野藤吾 #宝塚在住 #カトリック宝塚教会 #関西大学千里山キャンパス

        | 弘前りんご | 建築 | 05:23 | comments(0) | - |
        昨日は蔵開きの話で終始したけど、文化財建造物見学も忘れていませんよ (*^^*)
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          (本来の目的? ^^;)
          西宮、芦屋の文化財建造物の見学がもう一つの目的でした。
          朝9時に、京都文マネ13期6人が阪神西宮に集合。
          まずは西宮を西宮たらしめた、えびす宮総本社の西宮神社へ。

           

          本殿。三連春日造の優美な姿

           

          拝殿

           

          現在本殿、拝殿は瓦吹き替え工事中のため、祀られた神様方はすぐ西の仮本殿に移られていました。

           


          ここの文化財登録は所属する阪文建が担っていて、何度か中に調査で入らせてもらいました。

           

          重文指定の南大門(10日えびすの福男レースのスタート地点として有名)と同じく大練塀。

           

          (旧辰馬喜十郎邸と酒ミュージアム)

          ついで、西宮郷一の酒造会社である辰馬酒造関連の施設を見学。

          まずは今は本辰馬に吸収されましたが、本辰馬10代目当主辰馬吉左衛門の四男で南辰馬初代当主喜十郎の旧邸を見学。当時の気分を示す建物で、神戸英国領事館を模して建てられたという興味深い建物です。残念ながら阪神淡路大震災後は中の見学はできなくなっています。

           

          旧辰馬喜十郎邸

           

          そしてそのすぐ北の白鹿酒ミュージアム(本辰馬)では酒造りの過程をオーディオガイドの説明を受けながら見て回りました。

          灘酒飛躍の契機となったのが宮水発見でした。その記念の井戸を白鷹(北辰馬)の敷地そばで見ました。

          そして酒蔵通りに戻って東へ。蔵開きの会場の日本盛 煉瓦酒造館へ。
          そこでの様子は昨日のブログで紹介しましたが、昼酒飲みすぎました ^^;)

           

           "同期の桜?で酒を酌み交わす ^^;)"
           http://kitamahokif.jugem.jp/?eid=5315

           

          (次に今津郷)
          更に東へ。灘五郷の東の端にある今津郷です。

          休憩のつもりで入った大関のアンテナショップ、甘辛関寿庵でしたが、饅頭やその他の和菓子、抹茶はスルーして ^^;)、大関の自販機へ ^^;)(上述の昨日の記事 参照 http://kitamahokif.jugem.jp/?eid=5315

           

          そしてその道を挟んで向かい側になる今津小学校に残る、今津六角堂を見学。

           

           

          今津六角堂は、今津村立小学校の校舎として明治15年に建てられたもので、現存する小学校の洋風校舎としては松本市の開智小学校についで古い建物です。
          六角堂の名前は、正面玄関上のバルコニー部分が六角形になっていることから。

          建設にかかった費用は8000円。これは、当時今津・津門村の1年間の予算とほぼ同額であったといわれ、かなり高額なものでした。
          しかし、「今津に美しい校舎を」という思いから今津・津門村の有志が5200円を寄付し、建築にこぎつけることができたといいます(西宮市政ニュース 2012年10月10日 第1398号)
          明治の頃の教育にかける熱い想いが伝わってくる話です。今のお役人にこの爪の垢でも煎じて飲んでいただきたい (*^^*)

           

          (芦屋へ)
          ついで芦屋に向かいました。
          阪神芦屋駅の真北、歩いて1−2分のところにある芦屋警察署からスタートしました。

           

          (芦屋警察署)

           

           

          ここは、ロマネスク風の建物。
          当時兵庫県営繕課の営繕課長であった置塩章が関与していると思われます。
          ちなみに尼崎警察署(1926建造)は置塩章が手掛けています。

           

           

          阪神・淡路大震災(1995年)に見舞われ、また老朽化の問題もあったため、1927年に建造の旧建物の玄関部分とファサードを残して、残りの部分を新しく建て替えたものです(2001年)。新・旧の建築が違和感なく繋がれおり、我々文化財保護を考える者にとって、部分保存の一つのあり方と見えました。

           

          (カトリック芦屋教会)
          ついで、カトリック芦屋教会。現在の聖堂は長谷部鋭吉の設計(1956年)。

           


          ここは度々聖堂内でのコンサートで訪れていますが、外観も芦屋のランドマーク的存在としてふさわしいものです。ちょうど演奏会が催されていたため、中を見ることができず、残念でしたが。

          後述の芦屋仏教会館とともに、芦屋市の景観重要建造物の第一号として指定されています。

           

          (芦屋モノリス)
          今度はそこから東に行って、芦屋モノリスへ。

           

          芦屋モノリス


          元々、芦屋郵便局電話事務室として、逓信省技師、上浪朗が設計し、1929に竣工した洋風建築。
          阪神間モダニズム建築の好例です。
          しかし、その歴史はなかなか波乱万丈。戦時中は防空迷彩のため、コールタールで真っ黒に塗装され、戦後はリシン吹き付け塗装で逆に白い外観でした。
          1981年に電話交換局としての役割を終えると民間に移り、それらの塗装が剥がされ、新築当初の2色のスクラッチタイルに戻され、現在は芦屋モノリスと言う名のレストラン・結婚式場として活用されています。

           

          (業平橋)
          再び芦屋川沿いに戻り、業平橋を渡って西岸へ。

           


          これは、芦屋川にかかる国道2号線の橋です。
          初代は1917年(大正6年)に木造の橋として架橋されました。
          国道の交通量の増大により、1925年(大正14年)に現在の業平橋(2代目)にかけ替えられました。1974年(昭和49年)まで橋の中央に路面電車(阪神国道電軌、のちの阪神電気鉄道阪神国道線)が走り、橋上には芦屋川停留所が設けられていたそうです。業平橋の名は、芦屋に暮らしたとされる平安時代の歌人、在原業平に由来します。
          2012年、芦屋川の文化的景観の一つとして指定され、更に2018年、土木学会選奨土木遺産に認定されました。

           

          (芦屋仏教会館)
          芦屋川西岸に沿って立つ、RC造地上4階建ての建物。昭和2年(1927年)竣工の建物です。

           


          近代建築に東洋風、インド風の細部意匠を取り入れたデザインは、片岡安の設計。
          国の登録有形文化財となっています。
          今も仏教関係のみならず、コンサートの貸館などとしても活用されています。

           

          (ヨドコウ迎賓館)
          最後に訪れた、この日の見学のメインイベントである、ヨドコウ迎賓館
          近代建築の三大巨匠の一人、フランク・ロイド・ライト(あと二人はル・コルビュジェ、ミース・ファン・デル・ローエ)の設計で日本に残る3つの建物の一つ。あと一つはファサード部分のみを明治村に移築された、帝国ホテル二代目本館のものが残るだけです。

          今回ここを選んだのは、ライト建築で、重文の建物であるというだけでなく、灘五郷の一つ、魚崎郷の山邑酒造(現在の櫻正宗株式会社)の8代目当主であった山邑太左衛門が自邸としてこの建物の設計をライトに依頼して建てられたからで、蔵開きツアーにもふさわしいと考えたからです (*^^*)

           

           

          私自身はこれまでに数度訪れていて、ブログにも書きましたので、詳細はそちらを参照していただければと思います。

           

           "弘りんの芦屋散歩(3)フランク・ロイド・ライトの建てたヨドコウ迎賓館(旧山邑邸)"

           http://kitamahokif.jugem.jp/?eid=4054

           

           

           

          しかし、何度訪れても、2階の応接間に入ると、とても落ち着くのは変わりません (*^^*)

           

          そこの見学を終えて、打ち上げ会場(摂津本山)に向かいました。

           

           

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          #建築 #西宮 #西宮神社 #旧辰馬喜十郎邸 #今津六角堂 #芦屋 #芦屋警察署 #カトリック芦屋教会 #芦屋モノリス #業平橋 #芦屋仏教会館 #ヨドコウ迎賓館 

          | 弘前りんご | 建築 | 06:24 | comments(0) | - |
          今日は建築家、吉阪隆正の誕生日でした。
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            私は青森県の弘前で、建築家 前川國男を知り、建物の魅力を知る切っ掛けとなりました。

             

            前川國男設計: 木村産業研究所(前川がフランス留学から帰国して最初に手掛けた作品でもあります。いわば彼の原点。弘前市在府町) 

             

            前川國男設計:弘前市立博物館(弘前市下白銀町)

             

            前川國男設計: 弘前市民会館エントランス(弘前市白銀町)

             

            前川國男設計: 弘前市斎場(弘前市常盤坂)

             

            日本を代表する建築家の一人である彼が、実に弘前とゆかりが深いということは、彼の作品が東京を除いて地方では青森・弘前が一番多い(10作品で8作品が現存)ということに現れています。

             

             

            その彼が師として学んだのがフランスのル・コルヴィジェです。

             

            吉阪隆正(1917年2月13日 - 1980年12月17日、wikipedia)

             

            前川國男の後にコルヴィジェに学んだのが吉阪隆正で、いわばコルビジェ門下の兄弟弟子ですね。

            その彼も青森とはゆかりがあるんです。

             

            ヴェネチア・ヴィエンナーレに建てられた日本館

             

            これが吉阪の代表作の一つなんですが、それによってヨーロッパの建築界に日本の建築の実力を認めさせたものでした。

             

            (青森との接点)

            それはなにか?

             

             


            実はその完成した日本館に展示され、絶賛されたのが、棟方志功の版画作品”湧然する女者達々”でした。

            そう、彼は青森が産んだ世界の版画家で、日本人として版画部門で初の国際版画大賞を受賞しました。

            日本館の建築でヨーロッパの芸術界の耳目を集めたことも、棟方志功の作品が認められる大きなきっかけであったことは間違いないでしょう。そういう意味で吉阪隆正は東北を、日本にそして世界に知らしめることに貢献した、といっても過言ではないでしょう。

             

             

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            #建築 #吉阪隆正 #前川國男 #コルビジェ #青森 #弘前 #棟方志功

            | 弘前りんご | 建築 | 17:58 | comments(0) | - |
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            手稿譜を借金の方に取ろうとする債権者、取られるのを防ごうとしたヴィヴァルディの弟。

            修道士会に寄付されたものの、その価値がわからない修道士たちは、それをごみのように扱い、教会の倉庫の奥に放り込でしまい、長い年月の眠りにつきます。

            その後その存在を知った貴族が個人のコレクションとして入手。

            研究し、その散逸を防ごうとした研究者と、骨董的価値にのみ注目するファシスト政府との攻防。

            いずれも手に汗握る展開で飽きさせません。

            最大の貢献者の一人、ジェンティーリが追われて大学を去るときの言葉

            ”正しきものは、とこしえに記憶される” が、心に染み入ります。
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            旅屋おかえり [ 原田マハ ]
            旅屋おかえり [ 原田マハ ] (JUGEMレビュー »)
            ”旅屋おかえり”は、旅そのものが目的であり、生きがいの、そしてそれを仕事にしてしまった一人の女性の夢、挫折そして再生の物語です。

            旅屋とは、故あって自分は旅に出ることが叶わない依頼人に代わって旅をして、本人の代わりに希望の体験や目的を果たして、その旅の記録を依頼者に成果として届けるというもの。それを思い立ったのは偶然の出会いから。

            またタイトルのおかえりは、家に、故郷に戻ったときに掛けられる言葉、”おかえり” と、丘えりこの愛称、おかえりをもじったものです。そしてその言葉を聞きたくて旅に出るのです。

            旅屋の仕事としての旅によって、契約内容を遥かに超える成果(人間関係のもつれを解き、凍てつきを融かす)がもたらされるだけでなく、主人公、そしてそれを取り巻く人々の心までも癒やしてゆきます。

            そして成功するまでは故郷には帰れないと覚悟している主人公が、故郷で待つ母のおかえりという言葉を聞ける日も間もないというところで、小説は幕を閉じます。

            まさにハートウォーミングな小説。読後にじんわりと心があたたまる作品でした。
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