弘前りんご_新参者の宝塚日記

大阪から転勤で仙台8年、青森県弘前で21年暮らした関西人が、関西圏とはいえ、大阪とは違った土地の宝塚に住み、いわば新参者として暮らす中で、見聞きしたこと、思ったことをつれづれに書き綴って行きます。
ミュシャ、ラリックを、見出し、世に送り出した名伯楽、サラ・ベルナール
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    (ベル・エポック)

    ベル・エポック。フランスのパリが文化芸術の街として、最も輝きに満ちていた時代。

    時期的には、19世紀末から第一次世界大戦勃発(1914年)までを一般に指すようです。

    普仏戦争(19世紀中頃)に敗れたフランスでは、パリ・コミューン成立などの混乱が続き、政治体制も第三共和制が不安定な状況でした。

    しかし、19世紀末までにはイギリスに遅れるものの産業革命も進み、都市の消費文化が栄えるようになり、それにつれて芸術文化の華が開くこととなりました。1900年の第5回パリ万国博覧会はその一つの頂点とみなすことができます。

     

    (サラ・ベルナール)

     

    サラ・ベルナール(1844年10月22日? – 1923年3月26日、wikipedia)


    パリが最も華やかだった時代、ベル・エポックにおいて舞台女優として一斉を風靡した女優が、サラ・ベルナールでした。

     

    (ベルナール、ミュシャを見い出す)
    彼女はその俳優としての才能だけでなく、有能な芸術家を見出す能力にも長けていたようです。

    サラ・ベルナールが、自身の舞台劇”ジズモンダ”のポスターを依頼した相手、アルフォンス・ミュシャは、当時全くの無名の印刷所に働く若者でした。

     


    アルフォンス・ミュシャ(wikipedia)

     


    彼は偶然のきっかけでこのポスターを手がけることとなりました。

    それを見たサラ・ベルナールはその才能に惚れ込み、その後自身の舞台のポスターを彼に一任しました。

     

    ミュシャ:舞台劇”ジスモンダ”のポスター

    お陰で彼は一躍人気作家となります。

     

    (そしてラリック)

     



    さらに舞台の小道具としてのユリの冠。
    これのデザインは例によってミュシャがポスターで発表。

     


    ルネ・ラリック(wikipedia)


    それを基にデザインしたのが、ルネ・ラリック

    やはり彼も当時無名のジュエリーデザイナーでした。
    サラが依頼したことで、ひのき舞台に上がったことから、彼も世間の注目を浴びることになります。

    こうしてみると、偶然の出会いがきっかけとはいえ、サラ・ベルナールの確かな見る目がこの二人をデビューさせたといえるでしょう。
    まさに名伯楽ですね。

    なお、ラリックの一大コレクションが、実は日本の箱根にあります。

    箱根ラリック美術館(http://www.lalique-museum.com/

    箱根観光のついでに立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

     

    今日3月26日は、名伯楽サラ・ベルナールの命日でした。

     

     

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    #サラベルナール #ジスモンダ #名伯楽 #ミュシャ #ラリック #箱根ラリック美術館 

    | 弘前りんご | 美術 | 05:59 | comments(0) | - |
    とことん光に拘る。今日3月19日はジュルジュ・ド・ラトゥールの誕生日
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      (光にこだわった絵画の流れとは)

       

      モネ:印象・日の出

       

      光と絵画というと、モネなどの印象派をまず思い出すかもしれません。

      元々見る芸術である絵画は、光がなくてはそもそも成り立ちません。

      しかし、長らく多くの画家にとって光は空気のような存在、あって当然のもので取り立てて言及すべきことではなかったようです。

      ところが、モネら印象派の画家達は、とことん光にこだわりました。

      それには時代の趨勢(自然科学・光学技術の勃興など)もあったのではないでしょうか。

      それが更に進んで、描く物の形より光がより重要となり、一見近現代の抽象画のように何が書かれているかが判別困難なまでになりました。

       

      とはいえ、印象派以前に、光にこだわった画家達が居なかったわけではありません。

       

      (カラヴァッジョ)

      まずそのさきがけが、画家カラヴァッジョでしょう。

       

      カラヴァッジョ ”マタイの召命”(wikipedia)

       

      窓から差す一筋の光によって、緊迫した一瞬を切り取ってみせた、マタイの召命

      イタリアの画家カラヴァッジョ1571年9月28日 - 1610年7月18日)によって、絵画の新しい1ページ(バロック絵画)が始まったと言われています。

       

      (レンブラント)

      次にオランダのレンブラントを忘れるわけには行きますまい。

       

      レンブラント ”夜警”

       

      その数十年後に登場したオランダのレンブラント(1606年7月15日 - 1669年10月4日)。

      彼の代表作の”夜警” では、やはり窓から差す光が、スポットライトのごとく、暗闇の中から、登場人物を浮かび上がらせています。さあこれから劇が始まるという緊張感が、見事に描かれています。

       

      (フェルメール)

       

      フェルメール ”牛乳を注ぐ女”(wikipedia)

       

      そしてそれは、独特の光の世界を描いたオランダのフェルメール(1632年10月31日? - 1675年12月15日?)に継承されます。

      彼の作品のほとんどすべてにおいて、窓から差す光がまさに主役。

      ただ、全二者と違うのは、光が柔らかく空間全体に回りこみ、静謐な雰囲気をもたらしている点ですね。

       

      (ジョルジュ・ド・ラ・トゥール)

       

      ジョルジュ・ド・ラ・トゥール ”大工の聖ヨセフ”(幼子イエスとその養父ヨセフ。子の未来を案じる父の悲しみの表情が、ろうそくにより照らしだされています)(wikipedia)

       

      さて、レンブラントとほぼ同じ時期に活躍したフランスの画家がいました。

      ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593年3月19日 - 1652年1月30日)です。

      彼も光を実に効果的に絵に生かした画家でした。

       

      ただ彼と上記の他の作家との違いは、その光源にありました

      そう、この大工の聖ヨセフに見られるように、外光ではなくローソクなどの灯りです。

      しかし、彼は長らく忘れられていた画家でした。

       

      悔い改めるマグダラのマリア(メトロポリタン美術館蔵)

       

      灯火の前のマグダラのマリア(ルーブル美術館別館のルーブル・ランス美術館蔵)

       

      ラ・トゥールが宮廷画家として成功した矢先、仕えていた王(ルイ13世)が亡くなり、次の王(ルイ14世)の華やかな好みに彼の絵は合わず、冷遇されることになり、やがて歴史の闇に消えていったということです。

      実はラ・トゥールは20世紀に入って再発見された画家なんですね。

      謎の多いことも、今一般の人気が高まっていることの理由になっているかもしれません。

       

      しかし、そんなこととは関係なく、マグダラのマリア(4枚発見されています)それらの絵の静かでありながら、劇的な表現になっていることが、その本当の魅力でしょう。

       

       

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      #印象派 #モネ #光 #絵画 #カラヴァッジョ #レンブラント #フェルメール #ラトゥール

      | 弘前りんご | 美術 | 17:01 | comments(0) | - |
      ファム・ファタールを実像化した人
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        新国立劇場2023年のプロダクションの一つ、サロメ

         

        (ファム・ファタールとは)

        ファム・ファタール(仏: Femme fatale)という言葉があります。

        もともと、男にとっての「運命の女」(運命的な恋愛の相手)という意味でしたが、時代が下ると「男を破滅させる魔性の女」をも意味する言葉に変化していきました。怖いですねえ。でも人間て、怖いもの見たさっていうどうしようもない心理がありますからねえ。

         ・サロメ

         ・カルメン

         ・マノン・レスコー

        などが、ファム・ファタールとしてよく取り上げられます。

        いずれも、妖艶かつ魅惑的な容姿や性格を持ってして、その意志のあるなしに関わらず男を虜にさせ、道を誤らせてしまうというものです。

         

        そんな危険な存在にも関わらず、いやそうだからこそ、西洋において、ファム・ファタール願望が、芸術の分野で興ってきました。19世紀頃のことですね。やはり世紀末の気分がそこにも加味されたのでしょうか。

         

        (その代表的存在のサロメとは何者?)

        ところで、サロメは古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパスの娘(王妃ヘロディアの連れ子)です。

        何故彼女が名高いのか、それは洗礼者ヨハネ(救世主の到来を予言し、イエスに洗礼を施した)の首を所望した女性だから。

         

        レオナルド・ダ・ヴィンチ:洗礼者ヨハネ(wikipedia)

         

        その事件のいきさつは、キリスト教の、マルコ福音書の記述に拠れば、

        洗礼者ヨハネヘロデ王とヘロディア(弟の妻だった女性)との結婚の不道徳を厳しく批判した。

        ヘロデ王は、それに怒り、王に逆らうものとしてヨハネを捉えて、牢につないでいた

        ・しかし、なかなか人望あるヨハネを処刑できないでいた。

        ・ヘロデ王の誕生日の祝宴の場で王女(ヘロディアの娘(連れ子)義理の娘)サロメが見事に舞った

        ヘロデ王が褒美として何を所望するか尋ねた。(実は福音書にはサロメという名は出てこない)

        母ヘロディアにサロメが相談すると、ヨハネの首が良いと言うようにと言われた。

         (ヨハネを邪魔に思っていた王妃の差し金?

        ・そこでヘロデ王に、サロメはヨハネを断首し、その首をもらいたいと申し出た

        ・祝宴に列席した人々の前で褒美を与えると公言した手前、ヘロデ王はその申し出を退けられず、やむなくヨハネを処刑し、その首をサロメに与えた

        とのことです。

         

        (多くの芸術家を魅了したサロメ)

        そしていつしか、彼女がヨハネに恋をし、それをはねつけられた腹いせに首を所望したといった話に変化していきました。

        実は母親の差し金であったとは云え、このような猟奇的な彼女 ^^;)に、これまで多くの芸術家達がインスパイアされ、多くの作品が残されています。

         

        例えば絵画では、

         

        ティツィアーノ:「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」、1515年頃。ドリア・パンフィリ美術館(ローマ)所蔵。(wikipedia)

         

        カラヴァッジオ:「洗礼者の首を持つサロメ」、1605年(wikipedia)

         

        などの絵を始め、数多くの作品が描かれています。

         

        ところが13−17世紀前半まで、それほどまでに関心を持たれた素材だったサロメの逸話も、17世紀後半から起こる科学革命や、啓蒙思想によって、画家たちの関心が急速に離れてしまいます。そのような状況がその後およそ200年にわたって続きました。

         

        (世紀末に再び注目される)

        それが再び注目されるようになったのが、世紀末(19世紀末)思想が台頭した頃です。

         

        ギュスターヴ・モロー:『出現』 (1876, en:L'Apparition)(wikipedia)

         

        舞うサロメと、空中に浮かぶヨハネの首というなんとも猟奇的、かつ幻想的なこのモローの絵は人気を博し、いくつかのヴァージョンの作品を彼は残しています。まさに象徴主義のリーダーですね。

         

        (ワイルドのサロメとビアズリー)

        更に人々の関心を呼ぶ契機となったが、オスカー・ワイルドによるこのモティーフの戯曲化でした。

         

        オスカー・ワイルド (1854-1900) ニューヨーク, 1882の肖像(wikipedia)

         

        そしてその戯曲の英語による出版に際して挿絵を描いたのが、オーブリー・ビアズリーでした。

         

        ビアズリーの描いたサロメ(ワイルドの戯曲”サロメ”(1894年 英語版)の挿絵より)

         

        オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』のオーブリー・ビアズリーによる挿絵 (1892) (wikipedia)

         

        オーブリー・ビアズリー(1872年8月21日 - 1898年3月16日、wikipedia)

         

        ビアズリーは、作家オスカー・ワイルドに見出され、後に悪魔的と称されるペンで描いた、ワイルドの小説の挿絵で一躍有名になりました。

        その後、ワイルドが男色の罪で逮捕されるというスキャンダルが起こり、ビアズリー自身は男色家ではなかったものの、それに巻き込まれて、挿絵を描いていたイエローブックを追放されます。

         

        パリ、ベルギーと転々としながら絵を書き続けますが、生来の病弱のため結核となり、25歳の若さで病没

        その短い生涯に描いた作品が、その後多くの人に影響を与えたことはご存知のとおりです。

        こうしてみると、ビアズリーもファム・ファタールに取り憑かれた一人だったのかもしれませんね。

         

        ビアズリーとワイルドの愛憎の顛末については、原田マハの小説 ”サロメ”をお読みいただければと思います。

         http://kitamahokif.jugem.jp/?eid=2043

         

        今日3月16日はそんなビアズリーの命日でした。

         

         

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        #サロメ #ヘロデ王 #洗礼者ヨハネ #イエスキリスト #ティツィアーノ #カラヴァッジョ #モロー #ビアズリー #誕生日 #オスカーワイルド #原田マハ

        | 弘前りんご | 美術 | 15:58 | comments(0) | - |
        ヴィヴァルディは、四季だけやおまへんで!^ ^;)
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          (母の愛、そして悲しみ)

          キリスト教がヨーロッパ世界に与えた影響は広範にわたりますが、芸術の世界にも強く現れています。

          その中でもマリア信仰、それにインスパイアされた芸術作品も、当然数多くあります。

           

          (我が子イエスの死を悲しむ母マリア)

           

          ミケランジェロ・ブオナローティ作 ”ピエタ”

          (Juan M Romero - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0,

           https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=46153417による)

           

          彫刻作品で、これを超える作品は無いのではないかと思うのが、このミケランジェロのピエタ像です。

           

          人類の罪を一人背負って十字架上で天に召された我が子、イエス

          十字架から降ろされたその遺体を抱えて深い悲しみに暮れる母、マリア

          ミケランジェロの畢竟の名作 ”ピエタ” はその光景を余すところなく描いています。

           

          初めてバチカンでこれを見たときは、マリアの悲しみが伝わってきて、とても冷たい大理石で出来ているとは信じられませんでした。私はキリスト教徒ではないのですが、この感動は普遍的なものだと思います、多分 ^^;)

           

          (音楽では、スターバト・マーテル)

          この聖母と神の子の別離を描いたものとしては、音楽では ”スターバト・マーテル(悲しみの聖母)”でしょう。

          その元になっているのは、ラテン語の強弱四歩格で書かれた詩です。

          13世紀のフランシスコ会で生まれたカトリック教会の聖歌の1つで、ヤコポーネ・ダ・トーディ (Jacopone da Todi) の作とされています。

          3行毎に韻を踏んで、これを一節とする全20節で構成されていて、音楽はそれに対して全10曲の構成にまとめられています。

           

          その詩は、十字架刑に処せられたわが子の傍らで悲嘆に暮れて立ち尽くすしか無い母マリアの姿をまず描きます。

           

           Stabat mater dolorosa  悲しみの母は立っていた
           iuxta Crucem lacrimosa, 十字架の傍らに、涙にくれ
           dum pendebat Filius.    御子が架けられているその間

           

          題名のスターバト・マーテル(stabat mater;悲しみの聖母)は、この第一節の冒頭から取られています。

           

          このテーマはよほど作曲家のインスピレーションを掻き立てたのか、スターバト・マーテルに曲を付けた作曲家はなんと600人以上いると言われています。数えたことがないので知らんけど ^^;)

           

          主だった所(ごく一部ですが)を挙げると、

          古いところでは、ジョスカン・デ・プレ(16世紀)、ジョヴァンニ・ダ・パレストリーナ(1590年)、アントニオ・ヴィヴァルディ (1712年)、ペルゴレージ(1736年)などのルネサンス、バロック時代の作品から、

          古典派に入っての、ハイドン(1767年)、シューベルト(1815年・16年)、ロッシーニ(1837年)

          ロマン派ではグノー(1867年)、ドヴォルザーク(1877年)、

          近現代では、プーランク(1950年)、アルヴォ・ペルト(1985年)

          などを挙げることが出来、これらは一応一度は私も聴いています。

           

          (どれを聴くか)

          スターバト・マーテルといえば、まず思い起こされるのがペルゴレージのものでしょう。

          演奏も数多く録音されています。

           

          しかし今回は、今日が誕生日のヴィヴァルディの作品を紹介したいと思います。

          歌っているのは、カウンターテナーの名手、アンドレアス・ショル

          いい声、歌う技術がうまいのはもちろんですが、悲しみが切々と胸に迫ってきて、初めて聴いたときは不覚にも涙が....^^;)

           

           ヴィヴァルディ:スターバト・マーテル

           アンドレアス・ショル(カウンターテナー)

           https://www.youtube.com/watch?v=n71JvW4E9Xw

           

          是非一度聴いてみて下さい。

           

           

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          #芸術 #彫刻 #キリスト教 #マリア #イエス #ピエタ #音楽 #悲しみの聖母 #スターバトマーテル #ヴィヴァルディ

          | 弘前りんご | 美術 | 05:12 | comments(0) | - |
          ドラマを見て思い出しました ^^;)今日3月1日に彼が生まれたことを。
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            伊藤若冲:紫陽花双鶏図(動植綵絵の一つ、wikipedia)

             

            (いまや江戸期を代表する画家)

            NHKのドラマ "ライジング若冲"がつい最近再放送されました。

            これは画家の伊藤若冲が、まだ何者でもない、若者(青物問屋の若旦那でしたが)であった頃に、様々な人と出会い、画家として成長していく過程を面白おかしく描いたもの。また見てしまいました (*^^*)

             

            京・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男に生まれた伊藤若冲(これは画家としての名前。23歳のとき、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名しています)。

             

            伊藤若冲(1716年3月1日 - 1800年10月27日、wikipedia)

             

            (江戸絵画中の一匹狼)

            江戸時代の絵画、特に本流と言われる狩野派や四条丸山派に関わりのない、若冲のような師匠のいないいわゆる一匹狼的な画家は長らく評価されずに来ました。

             

            しかし、アメリカのジョー・プライスコレクションが海外、特にアメリカで高く評価されたことや、辻惟雄の"奇想の系譜"で取り上げられたことから見直され、日本でも人気が出始めました。

            現在では日本のどの画家よりも展覧会で人を呼べる存在になってしまいました。

             

            (画家としてだけではなく)

            40歳の年(1755年、宝暦5年)には、青物問屋の家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲って、自身は名を「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居して、絵をかくことに専念します。

            青物問屋を弟に譲ってさぞかし創作三昧の毎日と考えられてきました。そしてそれは本人が商売や人付き合いを苦手とするためと言われてきました。

             

            しかし、最近の研究では実はその後も町の役職につき、50代なかばに起こった錦市場の存続の危機の折りは奔走しました。その結果、錦市場は閉鎖を免れ、幕府公認を取り付けることに成功したことが記録に残っています。

            それは、この時期に書かれた作品がほとんど無い事と合致します。

            本人の好き嫌いにかかわらず、意外にそちらの才も優れていたのかもしれません。

             

            (再び画家としての生活に復帰)

            その後紆余曲折があり、なんとか復興、存続出来ることになったあとは再び創作活動が復活し、80代の長きに亘って数々の名作を描きます。

             

            彼の代表作は、なんといっても動植綵絵でしょう。

             

            伊藤若冲:動植綵絵 ”群鶏図” (wikipedia)

             

            超のつく細密画でありながら、幻想的な雰囲気はサルバドール・ダリやルネ・マグリットのようなシュルレアリズムのそれであり、見るものを惹きつけてやまないのかもしれません。

             

            今日3月1日は彼の誕生日でした。

             

             

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            #美術 #絵画 #伊藤若冲 #奇想の系譜 #プライスコレクション #動植綵絵 #誕生日

            | 弘前りんご | 美術 | 16:57 | comments(0) | - |
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            失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語【電子書籍】[ フェデリーコ・マリア・サルデッリ ]
            失われた手稿譜 ヴィヴァルディをめぐる物語【電子書籍】[ フェデリーコ・マリア・サルデッリ ] (JUGEMレビュー »)
            (弘前りんご)

            自身もバロック音楽の研究者であり、演奏家であるサルデッリが書いた、”失われた手稿譜 ー ヴィヴァルディをめぐる物語 ー” では、ヴィヴァルディが亡くなった直後から漂流し始める、ヴィヴァルディが残した膨大な手稿譜が本当の主人公であり、小説の形をとっているものの、そこに書かれたことはほとんどが事実です。

            しかし、その手稿譜がたどったその後の運命は、数奇としか言いようのないものでした。

            手稿譜を借金の方に取ろうとする債権者、取られるのを防ごうとしたヴィヴァルディの弟。

            修道士会に寄付されたものの、その価値がわからない修道士たちは、それをごみのように扱い、教会の倉庫の奥に放り込でしまい、長い年月の眠りにつきます。

            その後その存在を知った貴族が個人のコレクションとして入手。

            研究し、その散逸を防ごうとした研究者と、骨董的価値にのみ注目するファシスト政府との攻防。

            いずれも手に汗握る展開で飽きさせません。

            最大の貢献者の一人、ジェンティーリが追われて大学を去るときの言葉

            ”正しきものは、とこしえに記憶される” が、心に染み入ります。
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            旅屋おかえり [ 原田マハ ]
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            ”旅屋おかえり”は、旅そのものが目的であり、生きがいの、そしてそれを仕事にしてしまった一人の女性の夢、挫折そして再生の物語です。

            旅屋とは、故あって自分は旅に出ることが叶わない依頼人に代わって旅をして、本人の代わりに希望の体験や目的を果たして、その旅の記録を依頼者に成果として届けるというもの。それを思い立ったのは偶然の出会いから。

            またタイトルのおかえりは、家に、故郷に戻ったときに掛けられる言葉、”おかえり” と、丘えりこの愛称、おかえりをもじったものです。そしてその言葉を聞きたくて旅に出るのです。

            旅屋の仕事としての旅によって、契約内容を遥かに超える成果(人間関係のもつれを解き、凍てつきを融かす)がもたらされるだけでなく、主人公、そしてそれを取り巻く人々の心までも癒やしてゆきます。

            そして成功するまでは故郷には帰れないと覚悟している主人公が、故郷で待つ母のおかえりという言葉を聞ける日も間もないというところで、小説は幕を閉じます。

            まさにハートウォーミングな小説。読後にじんわりと心があたたまる作品でした。
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