弘前りんご_新参者の宝塚日記

大阪から転勤で仙台8年、青森県弘前で21年暮らした関西人が、関西圏とはいえ、大阪とは違った土地の宝塚に住み、いわば新参者として暮らす中で、見聞きしたこと、思ったことをつれづれに書き綴って行きます。
スクラップ&ビルド 自分に課した使命を全うした日本画家、速水御舟
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    (琳派の特徴)

    琳派とは、本阿弥光悦、俵屋宗達を始祖とし、100年ほどの時を隔てて、彼らの作品に出会って私淑した尾形光琳、また同じく100年ほどの後に、尾形光琳の作品に出会って私淑した酒井抱一らによって、連綿と続いた日本画の大きな一つの流れですね。いわゆる明確な師弟関係を結んで流派を形成したのとは違います。

     http://kitamahokif.jugem.jp/?eid=3430

     

    琳派の各絵師達は、日本画の骨格とも言える、大和絵の伝統(和紙に岩絵の具で描く)を基盤としていますが、狩野派とは違って、装飾性・デザイン性が非常に高いことがまず特徴としてあげられます。
    また大胆な構図、型紙を用いたパターンの繰り返しの絶妙な活かし方、それでいて俵屋宗達考案と言われるたらしこみの技法による深みある描写も独自性を生んでいる特徴でしょう。

     

    そんな日本画の伝統、特に琳派に学び、その上で新たな日本画の可能性を生涯をかけて探った画家がいました。

     

    (炎に引き寄せられるように)

     

    速水御舟作 「炎舞」

     

    この絵は彼の代表作として広く知られていますが、ご多分に漏れず、私が速水御舟と初めて出会ったのもこの絵です。

     

     

    そしてその時の私は、この炎に引き寄せられる蛾そのものだったような気がします。

    例えばその炎の表現に、琳派の影響が見て取れます。

     

    (スクラップ&ビルド)

    日本画家、速水御舟に興味を持って調べてみて、驚かされました。

     

    速水御舟(1894年8月2日 - 1935年3月20日、wikipedia)

     

    彼は琳派の絵が好きで、琳派の絵を研究するところから画業をスタートしました。その成果が例えばこの”炎舞”にはよく現れていると思います。しかしその後、自分の技法の確立に成功すると、惜しげもなくそれを捨て、次の技法の開発に乗り出すという、スクラップ&ビルドを繰り返して行ったようです。

    梯子の頂上に登る勇気は貴い。更にそこから降りて来て、再び登り返す勇気は更に貴い
    彼のこの言葉からも、その画業の凄まじさが伺えます。というか、そんなことを出来た人は果たして他にいたのか?

    現代で言えば、千住博がそのような取り組みをしているのではないかと思いますが。

    そして何が速水御舟をそんなふうに駆り立てたのか。


    しかし、それほど自分に厳しい人が、他者にはとても優しい人でもあったようです。
    不幸にして、列車に轢かれて、足をけがします。その場で彼に駆け寄った運転手に、
    「足を轢かれただけですから、列車を動かしてください。遅れては乗っている人が困るでしょうから」といったそうです。

     

    (細部に魂は宿る? さりげない美の姿)

    さて、その凄まじいまでの技法の鍛錬の先に得られた一つの作品がこの絵です。

     

    速水御舟作「名樹散椿」

     

    名高い椿の木を描いた作品で、琳派にも通じる装飾性、デザイン性の高い絵です。

    ところが、驚かされるのが、その細部の表現。

     

    花の部分を拡大してみると、

     

     

    実物と見紛うばかりの写実の美。しかし、離れて見るとそんなことに構っているとは見えない造形の美です。

     

    そしてこの絵の真骨頂は下地

    言われなければなかなか気づかない、一見普通に見える金色の下地ですが、それがまさに作者の意図。

    その実現の方法が尋常ではありません。

    金地がポピュラーな日本画であっても、常識では考えられないほどの大量の金を手間ひまかけて金砂子にして何度も塗り重ねています。そして目指すのはそれ自体を目立たせないこと

     

    おそらくそれは、彼が心のなかに抱いていた使命とも言うべき、日本画の革新を目指した想い、”画材から発想して日本画の新しい世界を創造する”ということにつながるのでしょう。

     

    どちらの絵も、東京広尾の山種美術館で出会えます。

     

    (以上の絵は山種美術館HPより)

     

     

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    #日本画家 #速水御舟 #琳派 #炎舞 #スクラップアンドビルド #使命 #名樹散椿 #金地 #細部 

     

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    | 弘前りんご | 美術 | 17:48 | comments(0) | - |
    ”ただ絵を書きたかっただけやのに” _千年の日本の絵画を支えた大和絵というもの
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      (やまと絵という系譜)

      田中訥言、冷泉為恭、谷文晁、榊原文翠と並べて、ピンとくる方は果たしてどれだけおられるか。

       

      田中訥言(1767年 - 1823年5月1日、wikipedia)

       

      谷文晁(1763年10月15日 - 1841年1月6日、wikipedia)

       

      さて昨今、注目される日本画の流派といえば、狩野派、円山・四条派、琳派、浮世絵の歌川派などですね。

      しかしこの中でも最も古い狩野派でさえ室町時代以降に登場したもので、それ以外は戦国時代から江戸時代にかけてです。

      ではそれまで日本に絵画の歴史がなかったか?

      いや、そんなことはもちろんなくて、貴族社会の始まった平安時代から連綿と書き続けられてきたやまと絵があります。

      その伝統的な絵を受け継いだのが土佐派ではありましたが。

       

      (やまと絵ってなに?)

      そういう方は、源氏物語絵巻などの絵巻本に描かれた絵を思い起こしてもらえればいいでしょう。

      やまと絵の絵師たちは、宮廷の貴族や大きな寺社仏閣からの求めに応じて描いていました。

      彼らは墨の線描と岩絵の具による彩色という日本の絵画の基本を定めました。

       

      源氏物語絵巻(wikipedia)

       

      (他の流派との関係は?)

      狩野派の始祖である狩野正信は、やまと絵の技法を学んだ上で、それを発展させて、狩野派独自の画風を確立しました。

      他の流派も多かれ少なかれ、やまと絵からの影響は受けています。

       

      しかし、そんなやまと絵も、パトロンである貴族の凋落から、いつしか勢いが失われていきました。

       

      そんな中、最初に挙げた人々が、江戸時代の末期に再びやまと絵を復興させることになります。

      特に田中訥言は、やまと絵ルネサンス(復古大和絵)の立役者。

      それに共鳴して師事した冷泉為恭、谷文晁

      また武士の家に生まれながら、絵を描くことに後半生を掛け、明治期はじめの日本画を支える働きをした榊原文翠

       

      (映画 ”京都やまと絵師物語”)

      彼らの功績の大きさが、正しく評価されてこなかったように感じます。

      私自身、葛飾北斎との関わりで谷文晁の名前は知っていたものの、その業績についてはほとんど知りませんでした。

       

      映画 京都「やまと絵師」物語、オープニング

       

      ところが近年公開された映画、京都やまと絵師物語によって、彼らの日本画に果たした重要な役割、その魅力を知ることが出来ました。

       

      中でも印象的だったのが、武士の家に生まれながらも、武士として生きながら、日本画のために一生を捧げた榊原文翆

      彼は幸い明治期(86歳)まで生きながらえる事ができて、京都市立芸大の前身の京都府画学校、京都市美術学校で後進に絵の指導までしました。

       

      一方、高貴な公家の出であった冷泉為恭

      彼は立場上尊王攘夷派とみなされていました。

      しかし、純粋に絵画への強い関心から『伴大納言絵詞』を所有していた小浜藩主である京都所司代・酒井忠義に接近し、閲覧の許可を得て『伴大納言絵詞』を模写していました。

      その行動が尊王攘夷派の者たちから、彼は佐幕派の危険人物であるとみなされ、裏切り者として最後には暗殺されてしまいます。

      彼は ”ただ絵を書きたかっただけやのに” という言葉を残して。

       

      残念ながら、いつの時代も芸術は政治と無関係では居られないという一つの事例ですね。

       

      いずれにしても、彼らの涙ぐましい尽力によって、日本画はその後も営々と続くことが出来たわけです。

       

       

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      #美術 #日本画 #大和絵 #田中訥言 #谷文晁 #冷泉為恭 #榊原文翆

       

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      | 弘前りんご | 美術 | 06:48 | comments(0) | - |
      放蕩息子のその後の人生 _ 今日は大原孫三郎の誕生日
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        (放蕩息子)

        若い頃、放蕩の限りを尽くした人が、ある時改心し、一念発起して、歴史に残る功績を果たすという例が少なからずあります。

        恐らく、有り余るエネルギーの使い方が分からなかった若い頃に、つい無茶をやってしまうのでしょう。それを正しい方向に向けてくれるきっかけ、人との出会いがあると、改心して素晴らしい仕事や業績を残すことになることがあります。

         

        大原孫三郎も、その一人でした。

         

        大原 孫三郎(おおはら まごさぶろう、1880年7月28日 - 1943年1月18日、wikipedia)

         

        倉敷紡績(現在のクラボウ)初代社長大原孝四郎の三男坊であった大原孫三郎は、二人の兄が夭折したため、嗣子(しし、跡取り)となりました。

        しかし、東京専門学校(後の早稲田大学)の学生の頃、放蕩の限りを尽くして莫大な借金まで作ってしまいます

        そのため、親に強制的に連れ戻されて、謹慎処分を受けます。

         

        (石井十次との出会いと改心)

        その頃、慈善事業家の石井十次と出会い、”児童福祉の父”とまで呼ばれた彼の生き方に大いに感銘を受けて改心します。

        まずは倉敷紡績の社長に就任し、事業を大いに発展させました。

        それだけでなく、社会福祉事業にも乗り出しました。

        手始めに自社の社員の福利厚生の向上を図ります。

        倉敷中央病院を設立しますが、当時として並ぶもののない、患者目線で施設の充実を図ったものでした。

        また私立倉敷商業補習学校(現岡山県立倉敷商業高等学校)を設立し、教育にも力を入れました。

         

        (児島虎次郎との出会いと大原美術館)

        さらに学びたくても資金がない地元の子弟のために大原奨学会を開設しますが、その奨学生のひとりが、児島虎次郎でした。

        東京美術学校西洋画科を2年飛び級という優秀な成績で卒業した児島は、日本のために美術品を蒐集したいと、大原に進言します。

        それを受けた大原は、児島をヨーロッパに派遣して彼に美術品を収集させたのです。

        それらの作品を所蔵、展示をするために、1930年(昭和5年)に倉敷に開館したのが、私立美術館の雄である大原美術館です。

         

        今日、7月28日はそんな大原孫三郎の誕生日でした。

         

        倉敷の大原美術館のファサード(wikipedia)

         

         

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        #放蕩息子 #改心 #一念発起 #大原孫三郎 #石井十次 #児島虎次郎 #倉敷紡績 #福祉事業 #大原美術館

         

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        | 弘前りんご | 美術 | 05:44 | comments(0) | - |
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