弘前りんご_新参者の宝塚日記

大阪から転勤で仙台8年、青森県弘前で21年暮らした関西人が、関西圏とはいえ、大阪とは違った土地の宝塚に住み、いわば新参者として暮らす中で、見聞きしたこと、思ったことをつれづれに書き綴って行きます。
わっぜぇ発見だ!
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    (番組静かに終了)
    3月9日の放送を持って、ブラタモリのレギュラー放送が終了しました。
    特にコメントもなく静かな幕引きでしたね。番組のエンディングの画面に、タモリさんが花束を持っていたのが僅かな印でしょうか。

     

    これまで、楽しい、また教えられることの多い番組でしたので、終了は残念です。
    ただ、ここ最近は番組制作サイドの、行った先の関係者への忖度なのか、切れ味が今ひとつの回も散見することもありました。

    ここはひとまず終了するのは賢明な判断だったのかもしれません。
    タモリさん自身の意向もその点に関してあったのではないかと愚考いたします。

     

    (指宿でのわっぜえ発見)

     

    NHK"ブラタモリ"(3/9放送)より。

     

    とはいえ、指宿を訪ねた最終回、巨大カルデラ内に更にカルデラ、マールができて、現在の指宿の土地ができているなど、面白い知見が色々とありました。

    なかでも、少なくとも私にとって、最もわっぜえ発見(鹿児島弁ででっかい発見)は、番組の最後の方にありました。

     

    指宿・橋牟礼川遺跡の出土土器(鹿児島県教育委員会)

     

    今では考古学、いや一般の人の知識としても、縄文時代と弥生時代では縄文の方が古いというのは、いわば常識でしょう。

    しかし、ある時までは、例えば縄文土器と弥生土器が出土しても、違う民族が使っていたという違いと考えられ、時代の違いとは必ずしも捉えられていなかったのです。
    ところが、指宿の橋牟礼川遺跡で、縄文土器の出土した地層と弥生式土器の出土した地層の間に、はっきりとした火山灰層が横たわっていたのです。
    これで出土した地層の上下関係から、民族の違いではなく、縄文時代の後に弥生時代がやってきたことが考古学的に確定されたのです。

     

    いやあ、面白いですね。

    できれば、不定期でいいので、タモリさんの思いの詰まった特番などをやってもらえると嬉しいですね。

     

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    #テレビ #番組 #NHK #ブラタモリ #放送終了 #鹿児島県 #指宿 #縄文 #弥生 #橋牟礼川遺跡

    | 弘前りんご | 歴史 | 18:27 | comments(0) | - |
    1月28日は何の日、フランスとドイツの因縁の日。
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      パリの夜景(wikipedia

       

      (たゆたえども沈まず)
      これはフランスのパリ市の標語です。
      パリの紋章の下部にこの言葉が書かれています。

       

      パリ市の紋章(wikipedia

       

      この言葉、元々は水運業が盛んだったパリの水運商人組合に所属する船乗り達の言葉でしたが、いつしか、パリが受けた様々な荒波(戦乱、革命)を生き抜いてきたパリ市民の象徴の言葉となりました。


      ちなみに、この水運商人組合の商人頭は事実上のパリ市長として、市政を司る存在でもありました。

      2015年のパリ同時多発テロ事件の直後にパリの街角のいたるところに、この言葉が掲げられたことをニュースで見られた方もいるかも知れませんね。

       

      (占領されたパリ)
      その荒波の一つに、ナチス・ドイツによるパリ市の占領(1940年6月22日)があります。
      しかし、それ以前にもパリがフランス王国の首都になって以来(百年戦争のさなかの1437年以降)、他国に占領されたことがありました。

       

      それは、普仏戦争の頃です。
      ナポレオン3世の主力軍が敗北し、プロイセン軍に包囲されたパリ(1870年9月)。

      1871年1月に第三共和政政府は降伏し、パリ市はプロイセン軍に占領されたのです。

      プロイセンの首相ビスマルクは、大きな統一ドイツ帝国を作るためには、ドイツ南部の諸王国を取り込む必要があり、そのためにはフランスとの戦争が不可避かつ不可欠と考えて彼がいわば仕掛けたものでした。

       

      そこには、ドイツ人の歴史観として、フランスがヨーロッパを不安定化させてきたとみなしていて、平和を乱さないためには、フランスの力を弱める必要があると考えていたことがあります。

      まさに因縁の関係があったんですね。

       

       

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      #歴史 #フランス #水運商人組合 #市章 #たゆたえども沈まず #ドイツ #パリ #占領 #ナチスドイツ #ビスマルク #プロイセン #普仏戦争 #因縁の関係 #1月28日

      | 弘前りんご | 歴史 | 06:43 | comments(0) | - |
      長く青森に居たのに、知りませんでした。
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        (なんちゃってツガリアン)
        青森、弘前に20年以上も住んでいて、第二の故郷なんて言っておきながら、この名前の由来を知らなかったなんて、やはり"なんちゃってツガリアン"ですね ^^;)

         

        えっ、何のことって?
        八甲田山の"八甲田"と言う名前の由来です。

         

        (八甲田山)
        そもそも八甲田山と言う一つの山があるわけでなく、いくつもの山のいわば集合体。
        たくさんの峰からなるので、多いという意味合いの"八"、甲(たて)状の峰、山の上に多くの田代(湿原)があるところから、八甲田と名付けられたということです。(新撰陸奥国誌)

         

        (似て非なる)
        その点、似た名前の兵庫、神戸の六甲山とは違いますね。
        六甲山の方は、神功皇后の伝説に登場し、武庫山(ムコヤマ)と呼ばれていた山が、ムコ→六甲(むこ)→六甲(ろっこう)と変遷して、現在の六甲山と言う名前になったようですから。

         

        (八甲田山死の彷徨)
        話を戻して、青森の八甲田山ですが、やはり全国的に知名度を高めたのは、あの"八甲田雪中行軍遭難事件"でしょう。

        映画にもなりましたね。

         

        映画"八甲田山" DVDパッケージ


        明治35年に青森の歩兵第五連隊が雪中行軍の演習を行いました。

        その時、記録的な寒波が襲い、吹雪で遭難して210名中199名が命を落とした事件です。

        指導部の無謀さから兵士は軽装のまま行軍を開始したため、猛吹雪の中で道を失い、寒さと飢えと疲労の為に遭難して行ったといいますから、もうこれは人災ですね。

         

        それは1月23日のことでした。

         

         

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        #地名 #なんちゃって #ツガリアン #八甲田山 #六甲山 #雪中行軍遭難事件 #1月23日

        | 弘前りんご | 歴史 | 17:09 | comments(0) | - |
        ドレによって知る、ルネサンス人の宗教観
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          ドレの失楽園:宝島社

           

          (ギュスターヴ・ドレ)

          ギュスターブ・ドレはフランスのイラストレーター・画家です。

          これまでに彼が書いた本の復刻本、旧約・新約聖書、神曲(ダンテ)、ドン・キホーテなどを読んできましたが、何と言ってもその壮大さ、啓示の深さといった点で、失楽園が私にとっては最も魅力ある作品です。

           

          ギュスターヴ・ドレ( 1832年1月6日 – 1883年1月23日、wikipedia)

           

          ただし注釈が必要ですが、これはドレがミルトンが書いた失楽園にインスパイアされて描いた版画に、失楽園の本文を載せたということです。

           

          (ミルトンの失楽園とは)

           

          ジョン・ミルトン(1608年12月9日 - 1674年11月8日から11月10日の間、wikipedia)

           

          失楽園といえば、イギリスの作家ジョン・ミルトンの作品で、ダンテ『神曲』アリオスト『狂えるオルランド』と並ぶルネサンス期の長編叙事詩の名作です。渡辺淳一のAREではありませんので、念のため ^^;)

           

          ドラクロア:失楽園を口述筆記するジョン・ミルトン(wikipedia)


          これはドラクロア描くところのジョン・ミルトンです。彼は晩年失明しまったため、娘たちに口述筆記してもらって完成させたのが、後期ルネサンス文学の金字塔失楽園”です。後ろに失楽園の絵がかけられていますね。

           

           

          ドレの失楽園の一場面(禁断の果実を食べ、その罪の大きさにさいなまれるエヴァとアダム)

           

          (失楽園のあらすじ)

          渡辺淳一のAREなら知っているがという方のためにも、あらすじを書いておきます。

          あらすじとは言え、長大な叙事詩なのでちょっと長いですが ^^;)

           

          世界の創造を共に行ってきた創造神オウエイと、その右腕の大天使ルチフェル

          ところが、完成に近づいた時に、天上界でその方針について2人の意見が割れ、神たちがそれぞれについて二つに分かれて(オウエイとルチフェルの2派)壮絶な戦いを行うところから話は始まります。

           

          ルチフェル(ルシファー)とその一派は、最後には負けて天上界を追われ、暗黒界に落とされて堕天使のデビルとなります。

          しかし地獄(暗黒界)で目覚めたルチフェルは、同じく敗れて地獄に落ちた堕天使たちをまとめ、捲土重来を誓います。

           

          再び戦いを挑む前にルチフェルは天上界の様子を偵察する目的で地球に行くのですが、その美しい地球で、勝った側の神、オウエイたちが作った人を見て、心を奪われます。

           

          しかし、立場上オウウェル達に一矢報いないではいられないことから、地上の動物として最も忌み嫌われた存在の蛇に化け、生まれたばかりで弱い立場の人間アダムの伴侶であるエヴァを言葉巧みに誘導し、禁断の果実を食べさせることに成功します。

          そしてエヴァはアダムにも食べさせてしまいます。

          その結果、オウエイとの契約を破った人間は、この地上の楽園エデンの園を追われました。これが失楽園の本来の意味です。


          ここまででページ数にしてほぼ99%でしょうか。しかし、ミルトンのルネサンス精神の発露はここからです。

          楽園を去る際に、犯した罪の重さに気づきながらも、与えられた罰のあまりの重さに打ち震えるエヴァが、大天使ミカエル(ルシフェルと兄弟神)に思わず次のように問います。

           

          ”これからもずっと、私たちも、子孫も、神との契約を破った罪人として生きてゆかねばならないのでしょうか?”

           

          それに答えたミカエルの言葉が実に深い。

          ”楽園を追放された時点でその罪は償われると私は考える。善意を受けて生まれてきたはずの自らの命が喜ぶことを、その都度新たになしてゆけばよい。道を見失いそうになったら、われらが警告を発するから気づいてほしい”

           

          (その意味する所)
          ここで語られるのは、勝者は誰もいないということです。
          自ら作りし人間に裏切られた神もまた例外ではない。

          大事なことは、これからどこに向かうかである。
          過去は一つしかないが、未来は無限にある。
          限りある命を、今と明日のために燃やすべきであるということを、ミルトンはミカエルの言葉を借りて語っています。

           

          そこまでは旧約聖書にあるエピソードを壮大なスケールの絵巻(まるでスターウォーズのようなスペースオペラかと)として描いてきたミルトンですが、最後に、登場する神、天使、そしてアダムとエヴァ、誰一人勝者はなく敗者であるとの認識を示します。

          そしてこのエヴァとミカエルの対話にこそ、まさにルネサンスの精神に基づくミルトンの思想が、凝縮されているように感じました。

           

          ということで、今日1月23日はギュスターヴ・ドレの命日でした。

           

           

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          #ミルトン #ルネサンス #失楽園 #ドレ #渡辺淳一 #オウエイ #ルチフェル #ミカエル #アダム #エヴァ #禁断の果実

          | 弘前りんご | 歴史 | 05:42 | comments(0) | - |
          火事と喧嘩は江戸の華?1月18日は振袖火事の起こった日(旧暦)
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            (誰が言った?)
            ”火事と喧嘩は江戸の華”と言うのをご存知ですか?

             

            江戸は人口が非常に密集していて、家も木造、そのため火事が多く、一度燃えると大火事になりやすかったのは確かです。
            そこで町火消しの制度が設けられたのですが、屋根の上で纏を振る火消しの姿が華やかに見えたのでしょう。

            また江戸っ子が気が早いから派手な喧嘩が多かったこともあり、2つを合わせてこのように言われたという説があります。

             

            それとは別に、大老酒井忠清が、度重なる大火に冠を曲げ、"かように度々火事を起こすとは江戸の恥じゃぞ"とたしなめたそうなんですが、それを講釈師、狂歌師が恥を華とすり替えて茶化して"江戸の華"としたと言う説もあります(樋口清之)

             

            (江戸の三大火事)
            それほど火事の多かった江戸ですが、なかでも江戸三大火事と呼ばれる大火がありました。
            "明暦の大火(振袖火事)"、"目黒行人坂の大火"、"丙寅(ひのえのとら)の大火"の3つです。

             

            (明暦の大火)

            なかでも明暦の大火は、明暦3年1月18日(旧暦)に起こり、3日間燃え続け、江戸市中の大半を焼いた最も大きな大火でした。関東大震災、東京大空襲などの戦禍、震災を除くと日本史上最大の火災でした。世界的に見てもローマ大火、ロンドン大火と並んで、明暦の大火は世界三大大火とされることもあります。

             

            その被害の規模ですが、江戸城の外堀以内の天守を含むほぼ全域、多数の大名屋敷、市街地の大半が消失し、死者数は3万とも10万とも言われています。結局この火事で江戸城の天守は再建されず、現在に至っています。

             

            浅井了意による仮名草子"むさしあぶみ"の中の明暦の大火を描いたページ。

             

            明暦の大火を描いた田代幸春画『江戸火事図巻』

             

            この火災の原因については諸説あります。
            この火事が”振袖火事”と呼ばれる様になった俗説では、叶わぬ恋にこがれて死んだ娘の振り袖を寺で供養しようとして、護摩の火に投じたところ、一陣の強風によって火の付いた振り袖が舞い上がり、寺(本妙寺)を燃やし、どんどん火が広がって江戸市中を燃やし尽くしたというものです。

             

            まあ、燃えやすい都市構造であったことが一番の原因なんでしょうけどね。

            果たして、現代の都市は大丈夫なんでしょうか?

             

             

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            #歴史 #江戸 #大火 #三大大火 #明暦の大火 #むさしあぶみ #防災

            | 弘前りんご | 歴史 | 06:55 | comments(0) | - |
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            (弘前りんご)

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            しかし、その手稿譜がたどったその後の運命は、数奇としか言いようのないものでした。

            手稿譜を借金の方に取ろうとする債権者、取られるのを防ごうとしたヴィヴァルディの弟。

            修道士会に寄付されたものの、その価値がわからない修道士たちは、それをごみのように扱い、教会の倉庫の奥に放り込でしまい、長い年月の眠りにつきます。

            その後その存在を知った貴族が個人のコレクションとして入手。

            研究し、その散逸を防ごうとした研究者と、骨董的価値にのみ注目するファシスト政府との攻防。

            いずれも手に汗握る展開で飽きさせません。

            最大の貢献者の一人、ジェンティーリが追われて大学を去るときの言葉

            ”正しきものは、とこしえに記憶される” が、心に染み入ります。
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            旅屋とは、故あって自分は旅に出ることが叶わない依頼人に代わって旅をして、本人の代わりに希望の体験や目的を果たして、その旅の記録を依頼者に成果として届けるというもの。それを思い立ったのは偶然の出会いから。

            またタイトルのおかえりは、家に、故郷に戻ったときに掛けられる言葉、”おかえり” と、丘えりこの愛称、おかえりをもじったものです。そしてその言葉を聞きたくて旅に出るのです。

            旅屋の仕事としての旅によって、契約内容を遥かに超える成果(人間関係のもつれを解き、凍てつきを融かす)がもたらされるだけでなく、主人公、そしてそれを取り巻く人々の心までも癒やしてゆきます。

            そして成功するまでは故郷には帰れないと覚悟している主人公が、故郷で待つ母のおかえりという言葉を聞ける日も間もないというところで、小説は幕を閉じます。

            まさにハートウォーミングな小説。読後にじんわりと心があたたまる作品でした。
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