弘前りんごの北のまほろば

司馬遼太郎の”街道をゆく”のタイトル”北のまほろば”に魅せられて、本州最北端の県にやってきました。日々見聞きしたこと、感じたこと、考えたことなどをつれづれなるままに綴ります。
9月13日はルネサンス期一の戦略家チェーザレ・ボルジアの誕生日
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    チェーザレ・ボルジア(1475年9月13日 - 1507年3月12日、wikipedia)

     

    ルネサンス期の英雄として語られることの多いチェーザレ。彼はスペインの貴族ボルジア家の当主ロドリーゴ・ボルジア(後のローマ教皇アレクサンデル6世)の子として生まれ、若くしてパンプローナ司教、後にバレンシア大司教、ヴァレンティーノ公爵となります。

     

    アレクサンドル6世(ロドリーゴ・ボルジア、wikipedia)

     

    父である教皇の軍事的右腕として活躍し、イモーラ、フォルリ、ウルビーノの征服に活躍。

     

    しかし、父と共に原因不明の病にかかり、父を失った後はその栄光に陰りが見え、最後は後継の教皇ユリウス2世によって捉えられました。

    イモーラを手放すことなどを条件に自由の身となりますが、その後の戦において戦死しました。

     

    ニッコロ・マキャベリ (wikipedia)

     

    彼と実際に交渉の場に立ち会った、フィレンツェの外交官ニッコロ・マキャベリは、政治思想家でもあり、その著書『君主論の中で』、「チェーザレは高邁な精神と広大な目的を抱いて達成するために自らの行動を制御しており、新たに君主になった者は見習うべき」と讃えました。

     

     

    チェーザレの生涯を描く漫画『チェーザレ』は、なかなか読み応えのある作品になっています。

     

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    | 弘前りんご | 歴史 | 07:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
    今日6月18日は、玄靴量親(旧暦ですが ^_^;)
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      聖武天皇の御代、法相宗の高僧義淵の弟子として、遣唐使としても派遣された玄掘
      学僧として順風満帆のスタートを切りました。

       

      玄掘弊固月日不詳ー天平18年6月18日(西暦746年7月15日)、wikipedia)

       

      折しも、宮廷を牛耳っていた藤原氏4兄弟が相次いで流行病(天然痘と考えられています)で亡くなり、それを契機として天皇親政の御代に戻そうと、皇族出身の橘諸兄が政権を握ります。その時聖武天皇のお覚えもめでたかった玄靴蓮吉備真備と共に彼のブレインとして取り立てられ、政治の世界へ。

       

      ところが政治家としての彼は恨みを買うような言動が多かったこともあり、藤原氏の衰退を危惧した藤原広嗣が玄掘吉備真備に対して反乱を起こしますが、その目指すところは橘諸兄の失脚でした。しかし、藤原氏と縁の深い聖武天皇や光明皇后が、期待に反して広嗣に同調しなかったため、失敗に終わります。

       

      伝玄形寮喫茵wikipedia)

       

      その後、藤原仲麻呂が権力がにぎるようになり、橘諸兄の力が失われた頃、筑紫の観世音寺に左遷され、その地で没します。

      今日6月18日(旧暦)がその命日です。

       

       

      | 弘前りんご | 歴史 | 06:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
      今日5月13日は、マリア・テレジアの誕生日
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        ハプスブルグをヨーロッパの大国にならしめたマリア・テレジア。

        神聖ローマ皇帝フランツ一世の后であり、ハンガリー女王、オーストリア女大公、ボヘミア女王。

         

        マリア・テレジア( 1717年5月13日 - 1780年11月29日、wikipedia)

         

        その手法は、各国の王室と姻戚関係を結ぶこと。

        初恋の人フランツ(神聖ローマ皇帝(在位:1745年 - 1765年))と結ばれましたが、多忙な政務をこなしながらも子宝に恵まれ、

        男子5人、女子11人の16人の子供をなしました。そしてその子達を周辺各国の王室との姻戚関係を結ぶことに活用しました。

        そのフランツの死後、その後喪服しか着なかったことも有名です。

         

        マリー・アントワネット(wikipedia)

         

        その一人があのマリー・アントワネット。フランスのルイ16世の后となりました。

        その他にも、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアに勢力を持つブルボン王家の一族と結婚しています。

        その目的は、急激に力を付けつつあるプロイセンに対抗するため、宿敵フランスと和解する必要があったからでした。

         

        しかし、フランツ、そしてテレジアの死後、ハプスブルグは急速に力を失ってゆきます。フランスとの過度の接近が、逆にドイツ諸国の反発を買ってしまったこともあったようです。

         

        | 弘前りんご | 歴史 | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
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