弘前りんごの北のまほろば

司馬遼太郎の”街道をゆく”のタイトル”北のまほろば”に魅せられて、本州最北端の県にやってきました。日々見聞きしたこと、感じたこと、考えたことなどをつれづれなるままに綴ります。
今日5月13日は、マリア・テレジアの誕生日
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    ハプスブルグをヨーロッパの大国にならしめたマリア・テレジア。

    神聖ローマ皇帝フランツ一世の后であり、ハンガリー女王、オーストリア女大公、ボヘミア女王。

     

    マリア・テレジア( 1717年5月13日 - 1780年11月29日、wikipedia)

     

    その手法は、各国の王室と姻戚関係を結ぶこと。

    初恋の人フランツ(神聖ローマ皇帝(在位:1745年 - 1765年))と結ばれましたが、多忙な政務をこなしながらも子宝に恵まれ、

    男子5人、女子11人の16人の子供をなしました。そしてその子達を周辺各国の王室との姻戚関係を結ぶことに活用しました。

    そのフランツの死後、その後喪服しか着なかったことも有名です。

     

    マリー・アントワネット(wikipedia)

     

    その一人があのマリー・アントワネット。フランスのルイ16世の后となりました。

    その他にも、娘や息子のほとんどがフランス、スペイン、イタリアに勢力を持つブルボン王家の一族と結婚しています。

    その目的は、急激に力を付けつつあるプロイセンに対抗するため、宿敵フランスと和解する必要があったからでした。

     

    しかし、フランツ、そしてテレジアの死後、ハプスブルグは急速に力を失ってゆきます。フランスとの過度の接近が、逆にドイツ諸国の反発を買ってしまったこともあったようです。

     

    | 弘前りんご | 歴史 | 06:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
    今日4月27日は ”哲学の日” であると同時に ”悪妻の日” だそうです (^_^;)
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      ジャック=ルイ・ダーヴィッド ”ソクラテスの最期”

       

      紀元前399年の4月27日。哲学者ソクラテスが獄中で毒をあおって亡くなったことから、哲学の日となったそうです。

       

      (ソクラテス 紀元前469年頃ー399年4月27日、wikipedia)

       

      ソクラテスは古代ギリシャのアテナイにおいて、対話的問答を通して、知とは何かを伝える活動をしていました。しかし、それを理解しない人々によって告発され投獄されました。脱獄を勧める弟子たちに対して、悪法もまた法なりとして、毒をあおって自殺する道を選んだとのこと。

       

      ソクラテスに尿瓶の尿をかけるクサンティッペ(オットー・ファン・フェーン 1607年、wikipedia)

       

      では、なぜこの日が悪妻の日なのか。

      それはソクラテスの妻クサンティッペが、悪女として知られていたことから。しかし、それについて語られるエピソードの多くは後世に作られたものが多く、本当のところはよくわからないというのが実情のようですけれど (^_^;)

       

      しかし、それはともかく悪女の日なんか制定して、何か得る処があるんでしょうか?

      ソクラテスの言葉として、「ぜひ結婚しなさい。よい妻を持てば幸せになれる。悪い妻を持てば私のように哲学者になれる」が有名ですね。結婚に失敗ということは無い、幸せに成れるか、成れなくても哲学者になれる。少子高齢化の日本においては、大事な結婚推奨の日ということになりますか?(^_^;)

       

      | 弘前りんご | 歴史 | 06:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
      今日4月23日は、ビール純粋令が制定された日
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        1516年の今日4月23日は、バイエルン公国でビール純粋令が制定された日です。

        制定したのは、バイエルン公 ヴィルヘルム4世です。

         

        バイエルン公 ヴィルヘルム4世 (1493年11月13日 - 1550年3月7日、在位:1508年 - 1550年、wikipedia)

         

        ビールはそれまで、場所によって作り方がまちまちで、その品質が一定しなかったのです。しかしこの制定に拠って、材料として水、ホップ、大麦・小麦の麦芽、酵母だけが、ビールの醸造に使用できることとなりました。

        いわば、世界で初めてビールとはなにかが定義されたわけです。そしてこの日はドイツの「ビールの日」にもなっています。
        一方、日本ではこの日は地ビールの日ですね。また、発泡酒が盛んな日本を、彼は何というでしょうか?

         

        | 弘前りんご | 歴史 | 05:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
        キリシタン、原爆、忘れてはいけない歴史。長崎浦上地区
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          今回の学会開催地は長崎でした。グルメ旅ではありません (^_^;)

           

          被災地である長崎、JR長崎駅の一つ北の駅、浦上。ここが爆心地でした。

          その記憶を風化させないようにと作られた平和公園の一角に原爆投下中心地区祈りのゾーンがあります。

           

           

          右は、被爆した浦上天主堂の遺壁を移設したもの。

           

           

          小さな子供を抱えた女性の像。

           

           

          平和公園に上がる階段

           

           

          被爆した少女の手記

           

          平和祈念像

           

          そこから山手に歩いてゆくと、浦上天主堂があります。

           

           

          もちろん浦上天主堂も爆風で破壊され、現在の建物は再建されたものです。

           

           

          当時のままのものもあります。

          長崎の街は、キリシタン迫害、そして原爆被災という、人類の負の歴史の地でもあります。

          これらのことを忘れてはいけないと思います。

           

          | 弘前りんご | 歴史 | 07:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
          開港150周年の神戸
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            神戸は、今年開港150周年 \(^o^)/

             

            http://www.kobeport150.jp/ (開港150周年HPより)

             

            色んなイベントが今年一年催されるようで、街は一層華やかになりそうです。

            そんな今年一年、神戸に学会出張の予定がないので、行くチャンスが....(T_T)

            なんとかして出張を作らねば (^_^;)

             

            (神戸観光壁紙写真集HPより)

             

            ただ、その150周年というのは、江戸時代の鎖国の後に開港してからということで、神戸の港の歴史は実は1300年前、奈良時代から始まったとか。

             

            瀬戸内海が、外洋(太平洋)に比べて穏やかで、船舶の航行に適していることや、その中で神戸が港として優れていることもあって、そのような長い歴史を誇るようになったようですね。

             

             

            | 弘前りんご | 歴史 | 06:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
            黒衣束帯の大工_中井正清
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              中居正清(永禄8年(1565年) ー 元和5年1月21日(1619年3月7日) )

               

              黒衣束帯姿の大名の如きこの人物は、実は奈良の宮大工の棟梁です。

              宮大工が法隆寺の現場に入るために必要な官位を、代々中居家は得ていたためです。

               

              二条城二の丸御殿(wikipedia)

              そんな彼が歴史の表舞台に出るようになったのは、徳川家康に大工の技術だけでなく、人を束ねる能力も兼ね備えていることを見抜かれ、二条城、江戸城などの築城指揮役に抜擢されてから。あの二条城をなんと1年で完成させたのですから、彼の才能も去ることながら、家康の目利きも相当なもの。

               

              また単に命令に従って建築を行っただけでなく、逆に家康にも色々と進言できたブレーンだった可能性もあるようです。たとえば豊臣の象徴の一つであった大和郡山の天守を、曳き屋で二条城に移して、その天守としたことなどは、彼の進言によるものではないかと言う説もあります。

               

              イタリアルネサンスの天才ダ・ヴィンチが、画家としてだけでなく君主のブレーンとして、軍事顧問として、活躍したことに似たものを感じます。

              | 弘前りんご | 歴史 | 06:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
              なになに、珈琲で茶会だって?_第26回 浄仙寺 珈琲茶会
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                今から200年ほど前に、幕府からの命令で蝦夷地に派遣された津軽藩士。

                彼らは寒さと栄養失調で浮腫に苦しんでいることを知った幕府が、薬として当時日本に伝わって間もなかった珈琲を彼らに送ったと伝えられています。薬理学的には、珈琲に含まれるカフェインの利尿効果で、浮腫の改善をねらったものと思われます。

                 

                 

                ゆかりの地、宗谷岬に成田専蔵さんが建てた、津軽藩士の慰霊碑。

                左側に見えるのが、コーヒー豆を模した碑。

                 

                そのことを知った弘前で珈琲に関わる仕事をされている成田専蔵さんが珈琲を奉納し、彼らの霊を慰めようと始めたのが、珈琲茶会。

                 

                 

                それに賛同された黒森山・浄仙寺の住職さんが協力して、このお寺で毎年この時期に催され、今年で26回目になります。

                 

                会場は庫裏に当たる建物。

                 

                緋もうせんが敷かれた部屋。

                 

                珈琲の焙煎、挽き方、抽出法を書いた紙が、和菓子と一緒に置かれていました。

                今回は、みさきのかぜという豆を使い、中深煎り、中挽き、83度のお湯で布フィルター抽出でした。

                 

                成田専蔵さんがスタンバイ。珈琲をいただくのは、一回に5名ずつ。

                飲む器は、自分で選べます。ちなみに私は一番右手前の緑色のカップ。

                 

                茶道に模した作法?

                堅苦しいものでは無いですが (^_^;)

                 

                 

                その後、本堂で珈琲奉納が行われました。

                 

                巨大なカップで奉納された珈琲。

                 

                住職さんの講話

                 

                蝦夷地に派遣された津軽藩兵を研究する郷土史家の方のお話。

                 

                その後、奉納した珈琲を参列者で分けて頂き、お開きとなりました。

                | 弘前りんご | 歴史 | 06:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
                吉野町煉瓦倉庫見学会
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                  2020年に美術館と関連施設として改修整備するため、その前に内部を見せる見学会がありました。

                  1回25名の2回に分けての見学会、2回目に参加してきました。

                   

                   

                   

                   

                  当時としては珍しく、工期も工費もかかる煉瓦作りにしたのは、弘前市の資産となるようにとの想いからだったそうです。

                   

                  全員ヘルメットを被って、いざ出陣 (*^^*)

                   

                   

                  敷地の吉野町公園にあった、奈良美智のあおもり犬は、いまはこの建物の一角に収められていますが、美術館として再スタートを切る際には、別の形で展示されるとか。

                   

                   

                   

                   

                   

                   

                  外から見る以上に中は広大。

                   

                   

                  トラスト構造を持つ洋室構造の部屋は現在も堅牢ですが、

                   

                   

                  和室構造の部屋は天上の構造が弱く、既に柱にも天井にも歪みが生じていて、至るところに補強がなされています。

                   

                   

                  これは籾殻。醸造所として使用されてきた名残。

                   

                   

                  これは、ここの持ち主が青森出身の奈良美智の作品を知り、ぜひこのレンガ倉庫で美術展をやりたいということから、数回開催されたうちの2006年の奈良美智展のタペストリー。今も残っていました。

                   

                  どのような形で美術館に生まれ変わるのか、楽しみです。

                   

                  | 弘前りんご | 歴史 | 07:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
                  瀬戸のはや瀬が育てたもの
                  0

                    瀬戸内海の、特に能島の周りの潮の速さは尋常ではありません。

                    瀬戸とは両側の陸地によって狭められた処、いわゆる海峡・水道のこと。

                    潮の満ち引きによって、流れが変わりますが、狭ければ一層その流れは

                    速くなります。

                     

                    (NHK 新日本風土記より)

                     

                    普段からこんな激しい潮の流れがあり、しかも見えない暗礁が

                    いたるところにあります。そこで船を座礁させずに乗りこなすには

                    熟達した技術が必要でしょう。そんな中で瀬戸の海賊と呼ばれた

                    水軍が育っていったわけですね。

                     

                    (ノルウェーのバイキング wikipedia) 

                     

                    海賊(かいぞく)とは、”島嶼や沿岸を根拠地として

                    武装した船舶により海洋を横行し、武力を用いて航行中の船舶や

                    沿岸の部落から収奪を行う組織”だそうですが、有名なところでは

                    ノルウェーのバイキング、映画などに出てくるカリブ海の海賊など。

                    日本にも古代に倭寇が中国沿岸部を度々襲ったという記録があります。

                     

                    時代は下って、中世以降の日本では村上水軍でしょう。

                    村上水軍の出自は諸説あって、村上天皇の末裔だとか、

                    河内源氏のそれだとか。

                    歴史の変遷で豊臣氏、毛利氏、小早川氏などに臣従し、

                    海軍(水軍)の担い手になってゆきました。

                     

                    さらに時代は下って現代。しまなみの島々には水軍の末裔が

                    居られ、漁業に従事する人もいるようですが、この速い瀬戸を

                    航行する船舶の安全を守るため、日夜奮闘する、まさに

                    村上水軍の機能的末裔とも言える人々もいます。

                     

                    (NHK 新日本風土記)

                     

                    潮の流れの変化に応じて、航路をスイッチするそうです。

                    右側通行から左側通行、そしてまた右側通行へと。

                    ただ機械的にスイッチするのではなく、その時点で航行する

                    船舶の位置、数、速度に応じて切り替えるタイミングを図る

                    という、胃が痛くなる様な仕事。本当にご苦労さまです。

                     

                    | 弘前りんご | 歴史 | 06:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
                    藩という名称は、明治維新後に出来た?
                    0

                      消えた都道府県名の謎(八幡和郎著)というタイトルに惹かれて

                      読んでみました。

                       

                       

                      藩が正式名称に採用されたのは、なんと明治になってからだと

                      いうのに、まず驚かされました。

                      それまでは、大名は自分の領地を国と読んでいたようです。

                       

                      また、”県庁所在地の名前と県名が一致しないのは、そこが佐幕派

                      だったため、明治政府に報復としてそういう仕打ちをされた”

                      というのが、実は都市伝説であると切り捨てています (^_^;)

                      もちろん根拠を示してです。

                       

                      さらに廃藩置県の時、今の1都1道2府43県の計47都道府県ではなく、

                      3府302県という膨大な数があったのが、紆余曲折の後に、

                      47都道府県に落ち着いた事の経緯を紹介しています。

                      市町村大合併狂想曲を経験した今となっては、その時の混乱が

                      想像できます。

                       

                      そのような総論のあと、北海道・東北、関東、中部、近畿、

                      中国・四国、九州の別に、それぞれのエリアの県の辿った経緯が

                      続くのですが、それがまた実にいろんな事情があって、おもしろい。

                      例えば、北海道は蝦夷地経営の開拓使から始まり、函館県、札幌県、

                      根室県に分割されたのですが、当初人口の殆どが、函館に集中して

                      いました。その中の札幌が道内第一の都市になるのは、昭和15年の

                      国勢調査以降まだ待たなくてはいけませんでした。そもそも県に

                      対応する意味での道である、北海道という名前が誕生したのは、

                      昭和22年からということなどなど。

                       

                      つい我々は、自分の生きる時代の常識で過去を捉えがちですが、

                      こと県名に関してもそれが全く通用しないことを知って、痛快でした。

                       

                      | 弘前りんご | 歴史 | 07:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
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