弘前りんご_新参者の宝塚日記

大阪から転勤で仙台8年、青森県弘前で21年暮らした関西人が、関西圏とはいえ、大阪とは違った土地の宝塚に住み、いわば新参者として暮らす中で、見聞きしたこと、思ったことをつれづれに書き綴って行きます。
かぎろい歴史探訪・番外編_醍醐寺、随心院、天智天皇陵
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    かぎろい歴史探訪http://www4.kcn.ne.jp/~kagiroi/saisingou/36.html)の番外編(友人の安田氏の企画)に行ってきました。

    京都伏見の醍醐寺、小野の里の随心院、そして山科の天智天皇陵をめぐる旅でした。

     

    (醍 醐)

    醍醐という言葉、語源としては仏教で言うところの五味の中の最高のもの。

    乳製品のようなものですが、再現は試みられているものの、正確なことは確定していないようです。

    今も使う、醍醐味という言葉は、本当の味わい、面白さを表し、仏教の醍醐から来ているのでしょう。

     

    さて、京都市伏見区の醍醐の里にある醍醐寺は、弘法大師の孫弟子の理源大師聖宝が笠取山の地に開山した、真言密教の寺で、醍醐派の総本山です。

    その後醍醐天皇、あるいは豊臣秀吉などからの庇護を受けて発展し、元々の山上の堂塔伽藍上醍醐と呼ばれるのに対して、それらの山の麓に展開した堂塔伽藍下醍醐と呼ぶようになりました。

     

    金堂、五重塔を始めとする20を超える国宝と、100を越える重要文化財を擁し、世界遺産に指定されています。

    今回はその下醍醐の伽藍を拝観することから始まりました。

     

    金堂(国宝。豊臣秀吉が命じて、紀州の湯浅から移築させたもの。主要部は平安末期の様式を完全に残しています。) 

     

    五重塔(国宝。醍醐天皇の子の朱雀天皇が、醍醐天皇の冥福を祈るために起工し、村上天皇の時代に完成)

     

    醍醐天皇によって、金堂が建てられるなど隆盛を誇りましたが、

    その後、応仁の乱などによって、下醍醐の堂塔伽藍は、この五重塔を残してことごとく消失しました。

    それを再興したのが、醍醐の花見などを開催したことで知られる、豊臣秀吉です。

    三宝院を建て、その中に秀吉自信が設計したという見事な回遊式庭園があります。

     

    三宝院唐門(国宝)

     

    そのことを感謝した醍醐寺は、徳川幕府の時代になっても、寺の色んな所に、太閤秀吉の縁を残しています。

    たとえば、三宝院の唐門には、皇室の菊の御紋と共に、中央に五七の桐の、豊臣家の家紋(太閤になってから。それ以前は五三の桐でした)が配されています。扉を開けると、五七の桐は隠れるという配慮もされています (*^^*)

     

    三宝院庭園(手前の砂とその上の岩は、鴨川の流れを模しているとか)

     

    建物だけでなく、例えば俵屋宗達の舞楽図の屏風など、見どころはそれこそ山のようにある醍醐寺ですが、現在それを収蔵している霊宝館は開館しておらず、見ることが叶わなくて残念でした。

     

    俵屋宗達:舞楽図屏風(重要文化財、wikipedia)

     

    その後昼食を挟んで、仏像棟などを見学した後、朱雀天皇陵、醍醐天皇陵を見学しました。

     

    朱雀天皇陵(後で見る天智天皇陵と比べると、墳墓の盛り土も低くこじんまりとして、木々の間から向こう側が透けて見えます)

     

    (小野一族の地)

    次に小野妹子、小野道風、小野篁、小野小町と言った平安時代に活躍した小野一族に関わりのある随心院を訪れました。

     

    随心院

     

     

    小町文塚

     

    本堂の裏に、小町に寄せられた千通もの手紙が埋められていると言われる小町文塚(五輪塔)があります。

    これを詣でると、文章が上達するだけでなく、恋愛も成就するなどのご利益があるそうですよ (*^^*)

     

     

    また、小野小町が使ったとされる、化粧(けわい)の井戸があります。これまた美しくなれるというご利益があるとか。

     

     

    さらに、小野篁が六体の地蔵を作らせた(六地蔵という地名が残っています)のですが、それを後に後白河天皇が清盛などに命じて、街道沿いに六つのお堂を建てて祀ったという伝承があります。その一つが山科地蔵堂として残っています。

     

    徳林庵六角堂(山科地蔵堂)

     

    随分と大きな地蔵菩薩です。

     

    そして最後の目的地、山科の天智天皇山科陵と琵琶湖疏水(山科疏水)を見に行きました。

     

     

     

     

    広大な敷地、さすが天智天皇陵です。

    入口から入ってから長い ^^;)

     

     

    10分以上歩いて、ようやく御陵の正面に到着。

    御廟野古墳とも呼ばれ、古墳時代末期のもの。

    被葬者の実在性にも、天皇陵古墳に比定することにも問題がない(要するに天智天皇陵と呼んで間違いない)、実は数少ない御陵の一つです。そして八角形平面の墳丘を持つ八角墳であり、7世紀以降大王と呼ばれる天皇の墓にのみ見られるものです。

     

    その大きさに驚き、また御陵の周りの静謐な空気に包まれて、しばし時間の立つのを忘れました。

     

    そしていよいよ今回の旅の最後の目的地に向かいました。この御陵の横を流れる琵琶湖疏水(第1疎水:山科疏水)です。

    この疎水は琵琶湖の水を京都市に流すために作られ、そこで発電した電気(蹴上発電所。日本初の営業用水力発電)によって、全国に先駆けて電車が走ることとなりました。

    何でも、毎月1日と15日は水路の藻刈りのため発電所が休止、その時は電車も運休となっていたようです ^^;)

     

     

    周りには豊かな緑があり、疎水のほとりには、アオサギなどが羽を休めていました。

     

     

    10時から始まった旅は午後4時過ぎに終わりを迎えました。

    この日は歩数にして2万4千歩に達し、体は歩き疲れていましたが、心は十分に満たされた旅となりました。

    講師(引率者?^^;)の安田さん、参加の皆さん、ありがとうございました。お疲れさまでした。

     

     

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    #かぎろい歴史探訪 #番外編 #醍醐寺 #醍醐天皇陵 #朱雀天皇陵 #随心院 #天智天皇陵 #琵琶湖疏水 #山科疏水

     

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    | 弘前りんご | 歴史 | 06:22 | comments(0) | - |
    キーワードは日本ですか? 小人閑居してテレビを見る ^^;)
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      (見るに値する)

      見るに耐えないテレビ番組が山程ある中に、一見に値する番組を見つけた時はとても嬉しいものです。

      って、そんなにテレビ見とんのかいな、ですって?

      いえいえ、武漢肺炎ウイルス禍のせいで自粛生活を余儀なくされて、すると小人閑居してテレビを見るということになるのですよ ^^;)

      でも、そんな場合でも、やはりいい番組を見たい訳です。

       

      ということで、この一週間ほどの間にテレビを見ていて、全く別の番組2つに強い感銘を受けたのですが、両者に共通点があったのです。

      それはなにか。

       

      (2つの番組とは?)

      まずその2つの番組とは、1つがNHKスペシャルの”戦国”(前・後編)(2020年制作)。

      そしてもう一つは、再放送なのですが、やはりNHKの”城 王たちの物語 マイセン 幻の磁器の城”(2004年制作) 

      残念ながらこちらは本放送時に見ていなかったのですが、今回このタイミングで見た(プレミアムカフェでの再放送)のは、なにかのお導き?(*^^*)

      NHKもこういう良質な番組が作れるんだから、そういったものだけをきちんと作っていれば、受信料支払い拒否なんて起こらないのに。まあ余計なお世話かもしれませんが ^^;)

       

      (NHKスペシャル”戦国”)

      前者の番組は、オランダの国立資料館での新しい資料の発見(大発見と言っていいかも)に依っています。

      その資料によれば、日本の戦国時代が、世界にローカル経済からグローバル経済へと転換を促すひとつの大きな契機となった、と考えざるを得ないということなのです。

       

      16世紀、スペイン一強の海外貿易に食い込むべく、そこから30年戦争を経て独立した新興国オランダが目をつけたのが、戦国時代の日本でした。それはなぜか。

       

      第一の理由は、極東がスペインのまだ食い込んでいないエリアであったこと。

       

      第二の理由は、日本の戦国時代の軍団の戦闘能力は高く、かつ、武器弾薬が雌雄を決するのに重要であったこと。

      そしてオランダが兵器製造に抜きん出ていて、交易品として彼らにそれを潤沢に提供できたこと。

      実際、豊臣、徳川の雌雄を決した大坂の陣はそれぞれバックに付いたスペインとオランダの代理戦争的な要素も有りました。

       

      さらに第三の理由は、南米で産する大量の銀を独占して銀貨を鋳造し、世界経済を牛耳っていたスペインに対抗するため、オランダが日本の豊かな銀山に注目したこと。

      日本の銀山開発を促進させ、銀の産出量が世界の1/3の量にまでになり、オランダもスペインに対抗できる銀を手にしたのです。

       

       

      更に第四の理由として、日本人傭兵の存在です。

      オランダは世界初の株式会社である東インド会社を作ります。それによってオランダは経済的な力を付けることが出来ました。

      一方、日本は江戸時代に入り、平和な時代となって武士が活躍の場を奪われてします。

      そこでオランダはその財力を基に、日本から戦闘能力の高い武士を傭兵として雇い入れ、つぎつぎと東南アジアのスペインの植民地を奪ってゆきます。

      そしてオランダはついにスペインを凌ぐ立場になります。

       

      このように、極東にあって、かつ鎖国政策を布いていた日本は、明治維新頃まで世界史との関わりが乏しいと従来考えられて来たのですが、実はどうもある意味間違いであることがわかります。

       

      (城 王たちの物語 マイセン 幻の磁器の城)

      さて、2つ目の番組。

      時代は前者の一世紀ほど後になります。

       

      フリードリヒ・アウグスト(1670年5月12日−1733年2月1日、wikipedia)

       

      ポーランド王にして、ザクセン選帝侯であったフリードリヒ・アウグスト(ポーランド王アウグスト二世、強健王)は、秘めた大きな野望がありました。

      若い頃、プロイセン王の居城で見せつけられた東洋陶磁の圧倒的な魅力に魅了されて、自分こそヨーロッパに於いて磁器を用いて覇権を打ち立てようと言うものでした。

       

      そしてそれまで、ヨーロッパでは、もっぱら先の番組に出てきたオランダの東インド会社を通じて輸入するしかなかった磁器を、自国内で製造することを計画します。

      苦心の末(といっても、国王にマイセンの街の城に幽閉されて、磁器を作る方法を研究させられた錬金術師のベドガーが命を削って研究したのですが)、東洋陶磁に負けない、白い肌の白磁を作ることに成功します。西洋白磁の最高峰マイセンの誕生です。

       

      次に絵付けの技術の確立を図ります。

      陶磁器の製造の技術が他国に知られるのを恐れて、アウグストはベドガーを解放しませんでした。

      そして彼に絵付け、絵の具の開発を命じます。しかし彼はそれを果たせず、絶望もあって酒に入り浸って37歳の若さでこの世を去ります。

       

      今度はウィーンから来た有能な絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトにその任務が託されます。そして彼はアウグストが憧れた、日本の有田焼の柿右衛門の赤の再現に成功します。その後はマイセン陶磁器の洗練された絵柄を次々と生み出していきます。

       

      マイセンのトレードマーク(wikipedia)

       

      この時点で、アウグストはヨーロッパ中にマイセンの磁器を製造販売することを宣伝。各国の王侯貴族達は競ってそれを購入し、彼は巨大な利益を得ることが出来ました。

       ちなみに城を作って国を傾けたルートヴィヒ2世とはこの点が違いますね。磁器に単に入れ揚げただけではなく、ちゃんと経済的な裏付けを考えていたんですから。

       

      その頃から、アウグストの次の夢というか野望が現れてきました。磁器の城を作るというものです。その名も日本城

      そこには東洋陶磁、日本の磁器、そしてマイセンの磁器を所狭しと飾るだけでなく、城のあらゆる部分に磁器を用い、文字通り磁器で出来た城を建てることを夢見ました。

       

      そこであたらに登場したのが、彫刻師ケンドリューです。

      これまでは壺、皿、陶板などのシンプルな形のものでしたが、彼には立体的な陶磁器製の作品を作るように命じました。

      彼の工夫はいろんなパーツを型で作り、それの組み合わせをアレンジすることで実に多彩な造形を可能にしたことです。

      現在のドレスデンのマイセン磁器製造所でも、それに従って様々な磁器製品を作り出しています。

       

      残念ながらアウグスト2世は糖尿病の持病が悪化して62歳で亡くなり、その後もプロイセンとの戦争で国力が衰退し、結局彼の野望だった陶器の城(日本城)は完成することは有りませんでした。

       

      しかし、世界に誇る磁器マイセンは、王の野望と、それに応えた3人の職人たちによって誕生し、今も世界の人を魅了し続けています。

       

      (共通するキーワードは***)

      もう言うまでもないですね。16−18世紀に、日本が世界史に於いて実に重要なキープレーヤーを果たしていたということです。

      その後芸術の世界では印象派の画家達を中心に、ジャポニズムブーム、そして明治の時期にも明治の超絶技巧の工芸品がヨーロッパで大いにもてはやされましたが、それに先駆けること100-200年の時代にも、ある意味日本ブームがあったということです。

       

       

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      #テレビ #戦国 #オランダ #スペイン #銀 #兵器 #武士 #アウグスト二世 #マイセン #日本 #日本ブーム #印象派

       

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      | 弘前りんご | 歴史 | 19:26 | comments(0) | - |
      夏は水難事故が多いですね、お気をつけ下さい。
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        (Googleのカテゴリー)

        Google検索には、いつもお世話になっています。

        検索キーワードを入れると、みなさんご存知のことを網羅してくれるだけでなく、ええっ、こんなのもあるの?という、予想外の切り口でのものも提示してくれます。

        それだけでなく、カテゴリー検索というのもあって、その項目に関することをカテゴリーとして提示してくれます。

         

        (水難事故死)

        さて、夏は水難事故が多いというので、たまたまなにげなく水難事故で検索したら、それで事故死した歴史上の有名な人物をカテゴリーとしてリストアップしていました ^^;)

        これがそのリスト

        こうしてみると、随分と多いですね。

         

        いくつか、リストの中身をちょっと見てみましょうか。

         

        (ピエロ・デ・メディチ)

         

        ピエロ・デ・メディチ(1472年2月15日 - 1503年12月28日、wikipedia)

         

        例えば、ピエロ・デ・メディチ

        ルネサンス期にイタリアの都市国家フィレンツェの最盛期をもたらしたのが、メディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチ

        Lorenzo il Magnifico(偉大なるロレンツォ)と呼ばれた彼が早世(43歳)したため、20歳の若さで跡をついだのが息子ピエロでした。

         

        若さゆえに偉大な父の跡を継ぐのは荷が重かったのか?、はたまた元々人望がなかったためなのか?、市民の不満を呼んでフィレンツェに混乱が生じました。

        そして折しも、ナポリ王国に進軍するフランス軍がフィレンツェに来た時、彼らにフィレンツェへの入場を許してしまいました。

        その結果、メディチ家はフィレンツェを追放され、亡命生活を余儀なくされます。

         

        頼った先のスペインのボルジア家のチェーザレ・ボルジアと共に戦闘中、ピエロはガリリャーノ川で溺死してしまいました。

        しかし、その後は弟のジョバンニ(枢機卿で後のローマ法王レオ10世)が跡をついで、ピエロの息子のロレンツォ二世と共にフィレンツェに帰還し、メディチ家は復活します。

         

        (ルートヴィヒ二世)

         

        ルートヴィヒ2世(Ludwig II., 1845年8月25日 - 1886年6月13日、wikipedia)

         

        彼については、その命日だった6月13日のブログでも取り上げました。

         http://kitamahokif.jugem.jp/?eid=3558

         

        彼は、国家の政治、財政運営をそっちのけで、現実逃避。

        中世様式の絢爛豪華な城をいくつも建築し、さらにワーグナーの音楽活動支援に、国家の財を湯水の如く注ぎ込みました。

        また自身望まなかったプロシアとの普墺戦争に参戦することとなり、結果は敗戦。

        莫大な賠償金を負う事となりました。

        それはますます彼を現実逃避に追い込むこととなりましたが、国家破綻の危機を感じた家臣達によって彼は廃位させられました。

         

        その翌日、幽閉先のベルク城そばのシュタルンベルク湖で、彼は彼を精神病と診断した主治医と共に水死体で発見されました。

        その死の原因は不明ですが、暗殺されたという説もあります。

         

        (イシュトヴァン・ケルテス)

        イシュトヴァン・ケルテス(1929年8月28日ブダペスト - 1973年4月16日)

         

        次は政治から離れて、音楽関係で。

        イシュトヴァン・ケルテス。優れた音楽家を多数輩出したハンガリー

        彼は同国出身の名だたる指揮者(アルトゥル・ニキシュ、フリッツ・ライナー、ジョージ・セル、ゲオルグ・ショルティなどなど)の後を継ぐ逸材と期待されていました。

         

        彼は首都ブダペストに生まれました。

        フェレンツ・リスト音楽院でコダーイなどに学んだ後、26歳にしてブダペスト国立歌劇場の指揮者に就任。

        ハンガリー動乱の後、西側に亡命し、ロンドン交響楽団の首席指揮者を務めます。

         

        バイエルン州の名門、バンベルク交響楽団の首席指揮者を務めることが決まった1973年、客演先のイスラエル・フィルの公演の最中、イスラエルのテル・アビブの海岸で遊泳中に、高波にさらわれて溺死しました。

        43歳のこれからというときの早すぎる死でした。

         

         ドヴォルザーク交響曲第9番”新世界より”

         イシュトヴァン・ケルテス指揮 ウィーンフィル(1961)

         https://www.youtube.com/watch?v=czuD4PDoaT0

         

        (源光)

        最後に日本人。

        源光です。光源氏じゃなくて、みなもとのひかるです ^^;)

        彼は第一親等の皇族でしたが、多くの兄弟と共に源姓を賜って臣籍降下しました。

         

        臣籍降下ですが、平安時代に、皇位継承を安定化させるため、多くの皇子をもうけることがよく行われましたことに関連します。安定化には寄与したものの、実際に皇位継承できる皇子はごく少数に限られるため、平安前期から中期にかけて、皇位継承の道を閉ざされた皇族が多数発生し、別の様々な問題を生じていました。

         

        そこで、皇位継承の可能性が無くなった皇親たちに姓を与えて臣籍降下させる皇親賜姓(こうしんしせい)が行われ、問題の解決を図ったわけです。いわば元皇族のリクルートのようなものです ^^;)

         

        さて、源光ですが、彼が歴史上脚光を浴びるのは、菅原道真との関わりからです。

        彼は藤原時平と結託して菅原道真を失脚させた張本人の一人とされています。

        そして道真の後任としてちゃっかり正三位・右大臣に叙任、邸宅の場所に因んで西三條右大臣と称されました。

         

        さらに、延喜9年(909年)左大臣・藤原時平の薨去に伴い、太政官の首班を占めて左近衛大将を兼ね、翌延喜10年(910年)には正二位の高位に昇りました。まあ周りは、彼が菅原道真を陥れて、上手いこと立ち回ったと思ったことでしょう。

         

        ところが、因果応報というか、延喜13年(913年)3月12日に鷹狩に出た際に、源光は塹壕の泥沼の中に転落してしまい、溺死しました。享年69歳でした。

        しかも、遺体が上がらなかったことから、世の人々はこれを道真の怨霊の仕業として畏れ慄いたと伝わっています。

         

        以上、リストの中から4人を適当にピックアップして紹介しました。

        これから海や、湖に行くことが多くなると思いますが、くれぐれもご注意を。

        いや、中で眠りこければ、お風呂の浴槽だって危ないですね。

        くわばらくわばら ^^;)

         

        そうそう、中京区桑原町は、菅原道真の屋敷があったと伝えられるところです。

        道真が亡くなった後、幾度も雷が京の都の至るところに落ち、道真の祟りだと京都びとを震撼させました。

        しかし、ここ桑原だけには落ちなかったと言う言い伝えから、雷よけに、くわばら、くわばらと唱えるようになりましたとさ (*^^*)

         

         

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        #夏 #水難事故 #グーグル検索 #ピエロデメディチ #ルートヴィヒ二世 #イシュトヴァンケルテス #源光 #菅原道真 #くわばらくわばら

         

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        • 津軽麺紀行(174)_ ☆☆(星2つで、にぼし)が北に流れて、ながれぼしに。中華そば ながれぼし(弘前市 宮川)
          てんし (10/26)
        • 引っ越しのご挨拶 _ 青森でおせわになった皆様へ。
          葛西美幸 (10/23)
        • 今日10月14日は指揮者、レナード・バーンスタインの命日です。指揮者と作曲家の両立に苦悩する。
          てんし@弘前 (10/14)
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